ニッケイ新聞 2008年9月30日付け
サンパウロ日伯援護協会(森口イナシオ会長)経営の日伯友好病院が開院二十周年を迎えたのを祝して、二十七日午前、サンパウロ市パルケ・ノーボ・ムンド区の同病院講堂で記念式典が開かれた。病院職員や援協役員ら約百人が参加し、病院の〃成人式〃を盛大に祝福。壮年期に向けてますます病院が成長するよう、関係者一同さらなる努力と発展を誓い合った。
日伯友好病院は、「みんなで協力我らの病院」のスローガンのもと、日伯両国の企業や団体から寄せられた浄財、十億円以上をもとに建設され、一九八八年の移民八〇年祭の当日に落成。日本語で安心して医療を受けられる病院として、これまで日系社会の医療に応えてきただけでなく、近年では公的機関から全伯で五十指に入る優良病院の評価を受けるなど、サンパウロ市北東部を代表する病院に成長した。二十年間での総診察件数は五百万件を超え、日系人だけでなく非日系人の利用者からも高い信頼を得ている。
式典では、野村次郎副会長の開会の辞に続いて、大原毅常任理事の合図で先亡者へ黙祷を捧げた。友好病院建設の父・竹中正元援協会長はじめ、病院経営審議会初代名誉会長の橘富士雄氏、昨年三月に亡くなった和井武一元援協会長らの功績を称えた。
森口会長は「友好病院は最大のお祝いの日を迎えた」とあいさつ。病院建設にあたり、日系社会から多大な協力を受けたことは決して忘れることはできないとし、「二十年が経ち、友好病院は一人前になった。今後とも多くの目標と夢を持ってさらに発展させていきたい」と力強く述べた。
菊地義治援協副会長(病院経営審議会副会長)は、友好病院の創立から発展の歴史の詳細を振り返ったうえで、病院に多額の資金協力をしてきた神内良一氏(日本国際協力財団理事長、援協名誉会長)に感謝の意を示した。別府オズワルド院長は「ブラジル社会は今後、高齢化の進展が予想され、そのニーズに応えられるような病院になる必要がある」と今後の未来展望を語った。
来賓の山下譲二文協副会長、後藤菜穂JICAブラジル事務所総務の祝辞に続いて、丸橋次郎在サンパウロ首席領事は「移民百周年の記念すべき年に、日伯友好病院が成人式を迎えたことは大変喜ばしい限り」とあいさつ。この日配布された日伯友好病院二〇周年史のタイトル「明日に輝く」を引用したうえで、「これまで輝いてきた友好病院が今後ますます輝いていってほしい」と日ポ両語で激励した。
このほか、病院の発展に貢献した援協役員や大型寄付者など功労者十三人や、病院開院以来勤務するベテラン職員十二人に対して表彰式があり、代表して原沢和夫元援協会長が謝辞を述べた。式典後、会場を移して開かれた祝賀会では、ケーキカットのほかに、坂和三郎援協副会長が勇ましく乾杯の音頭を取り、会場を沸かせた。
日伯友好病院=年々規模を拡大し発展=20年で職員数10倍に
日伯友好病院は、国際協力事業団(JICA、現国際協力機構)が所有していた工業移住センター跡地を譲り受けて建設。竹中正援協会長を筆頭に、日伯両国で積極的な募金キャンペーンがなされ、十億円を超す資金が寄せられ、八六年に建設工事が始まった。
工事は順調に進み、一九八八年六月十八日、移民の日の当日、礼宮さま(現・秋篠宮殿下)やジョゼ・サルネイ大統領、ウリセス・ギマランエス連邦議会議長はじめ、福田赳夫元総理、田中龍夫元文部大臣ら、多数の日伯両国の政府高官の出席を得て落成式を開催した。
同年九月十九日に、二階、三階部分の三十病床を稼動させて開院。翌年には神内良一氏の資金援助を得て、当初予定した百二十病床を整えるとともに、日本から導入した最新の医療機器が評判を呼び、九〇年末には、計画よりも早い段階で赤字経営から脱却した。
九〇年代には、デカセギブームにより、日系人職員の確保が難しくなることもあったが、病院の利用者は順調に増加。病床不足が慢性化したことを受けて、九七年には新病棟の「パビリオンR・神内」を稼動させた。この間、病院近隣に専門科目別の外来診療所を開所させるだけでなく、病院近隣の貧困家庭を対象にした福祉事業も積極的に展開するようになった。
〇四年には、さらに新病棟の神内総合医療検査センターを落成。これにより全部で約二百三十の病床を整えた。〇五年末には全伯信用機構から全伯で五十指に入る優良病院の評価を得た。
開院初年の八八年末、全部で百四十一人の職員がいたが、利用者の増加を受けて、職員数も大幅に増加。〇七年末現在で、医師や看護師、事務、洗濯や調理担当の職員を含めて、千二百五十人が病院で働いている。そのうち三百五人が日系人で、全体の二四%ほどを占めている。