ニッケイ新聞 2008年9月24日付け
「移住時に持ち来し記念の掛時計にぶく光りてくるうことなし」。長い年月を経てなお、しっかりと時を刻む日本から持ってきた時計に、みずからの家族の歴史を重ねて深い味わいを出している▼全伯短歌大会で無冠に終わった秀作を、ここに紹介してみたい。「エンシャーダに空のコロッテ担ぐ道夕やけ空に唄った歌を」。仕事の後、水筒がわりの樽(コロッテ)を担いで、知っている限りの歌を思い出しながらコーヒー園の道を歩いていく移住初期の家族の姿が彷彿とされる▼現在の自分を、「何ごとも『マイスオウメノス』と言うポ語に馴染みて移民のひと生過ぎゆく」と詠み、半ば自嘲的な句に移民としての人生を受け入れる余裕を感じさせる▼また、「外人の嫁と暮らしてつつがなし『NHK』にチャンネル合わす」とは多文化共生のブラジルらしい家庭の光景だ。そして百周年にふさわしい「サントスの埠頭に佇てば幾万の移民の足音通り過ぎ行く」「式典に楽のひびけどブラジルの国歌うたえず黙し起立す」などの句もあげられる▼これら移民独自の感情表現の根底には、どこか郷愁を感じる。その意識の特徴は「単に〈ここ〉にいるのではなく、つねに〈あそこ〉から遠いここにいると故郷・故国を迂回して、自分の位置を確かめがちだからである」(細川周平『遠きにありてつくるもの』みすず書房、2008年)というもので、日本の日本人には理解しがたいかもしれない▼でも、それゆえ短歌史において移民の作品には独特の意義がある。最後に「夢にさえ笑顔やさしき亡妻(つま)なりき苦労かけしをわびる命日」も心にしみる一句だろう。(深)