ニッケイ新聞 2008年8月26日付け
先人の教えを次世代に――。沖縄県人ブラジル移民百周年記念式典が二十四日午前十時半から、ジアデマ市の沖縄文化センターで開かれた。笠戸丸契約移民七百八十一人のうち三百二十五人を占めた沖縄県人。式典には国内外から約四千人のウチナーンチュが一堂に集い、今日の県系社会発展の礎となった先人への感謝とともに、新たな百年に向けた第一歩を踏み出した。
式典には国内外から約四千人が参集し、三〇×六〇mの特設テントからはみだすほどの混雑を見せた。
青壮年会コーラスによる日伯両国歌斉唱、先駆者への黙祷に続いてあいさつに立った与儀昭雄実行委員長(県人会長)は「サントスに降り立った笠戸丸の県人移民は、荷物は小さくとも、心の中には新天地への希望がいっぱいに詰まっていた」と述べ、その夢が現実に打ち砕かれていく中でも苦難に耐えて十五万人の県系社会の礎となり、農、工、商業、教育、医療など多くの分野でブラジル社会発展に貢献した先人の営為を称えた。
そして「世代が移り、日本語が不自由になっても、先人が残した誇り、忍耐、規律といった美徳を伝えていくのが、後に続く世代の責任」として、「百周年は、新たな一世紀に向け日系社会また母県との将来の関係を改めて考える機会」と語った。
安里カツ子副知事が仲井眞弘多知事の祝辞を代読。知事は戦後沖縄の発展を「世界のウチナーンチュからの支援の賜物」と感謝の意を表すとともに、「永年にわたりブラジルで生活の基盤を築いてきた皆さんの経験と知恵を、ブラジルと沖縄県の交流推進に役立ててほしい」と呼びかけた。
高嶺善伸県議会議長、宮城篤実県町村会長(嘉手納町長)、西原篤一沖縄ブラジル協会会長など母県代表、ジョゼ・デ・フィリッピ・ジュニオール・ジアデマ市長、西林万寿夫在聖総領事、矢野敬崇県連副会長ほか県系の神谷牛太郎サンパウロ市議、パウロ・テイシェイラ連議などブラジル側関係者も祝辞を述べた。
県から宮城調智(元県人会長)、上原幸啓(文協会長、サンパウロ大学名誉教授)、坂元久場綾子(コレジオ・ブラジリア校長)、伊波興祐(元連邦議員)、神谷市議の五氏に県系人特別功労賞を贈呈。二十八人に一般功労賞、国内四十四支部に県知事表彰が贈られた。また百歳以上十二人、九十歳以上百七十八人の高齢者が表彰を受けた。県人会から母県の十八個人・団体への感謝状贈呈も行われた。
式典ではまた、記念事業の資料館建設の補助金として県から二千万円、市町村四団体、西原・沖縄ブラジル協会長からそれぞれ一千万円の目録が与儀県人会長に手渡されたほか、記念品の贈呈などが行なわれた。
翁長雄志・那覇市長の発声で、ブラジル、日本、沖縄のため、それぞれ万歳を三唱。来賓一同で鏡割りを行ない祝賀昼食会に移った。
昼食後は会場内のスクリーンで、県系社会百年を歩みをつづったスライドや、「島人ぬ宝」などの曲でブラジルでも知られる沖縄出身バンド「BEGIN」が寄せた祝賀メッセージの映像なども上映された。午後二時半からは祝賀芸能祭が行なわれ、午後六時までにぎわいを見せた(後日詳報)。
高齢者表彰を受けた花城淑子さん(100歳)は「皆さんの労わり、思いやりのおかげで百歳を迎えられました。感謝しています」と喜んだ。
父の故・花城清安氏とともに沖縄文化センター発展に尽力、この日功労賞を受けた花城清賢ジョルジさん(77、二世)は「自分達のやってきたことが認められ、これ以上の光栄はありません」と嬉しげな表情を見せていた。
沖縄県人移民百周年=母県、各国から千五百人
県人移民一世紀の節目を祝うため、母県からは初の南米チャーター便による三百五十人を含む七百人が来伯。ハワイ(二百人)をはじめニューヨーク、ロサンゼルス、アトランタ、シカゴなど北米各地、ペルー(百三十人)やイギリス、アルゼンチン、ボリビア、ニュージーランドなどを合わせ、国外から一千五百人の県人・県系人が慶祝のため訪れた。
「百歳以上、九十歳以上のお年寄りがたくさんおられることを知って、こみ上げてくるものがあり、思わず立ち上がってしまった」と話すのは、ニューヨーク県人会会長のトゥーシー・与那覇・てい子さん(67)。「団結は力。ブラジルには原点のままの沖縄が残っていると感じました」と感想を語った。
ハワイから訪れた崎間ふみえ・ジェーンさん(85、二世)も「ブラジルのウチナーンチュはとても親しみやすい人たち。とても良い式典でした」と振り返る。
ペルーの日系メディア「プレンサ日系」編集長の比嘉マヌエル恒夫さん(62、二世、元ペルー県人会長)は「先人を顕彰する気持ちはどこの国でも同じ。ペルーの県人移民百周年(〇六年一月)を思い出し、感動しました」と話していた。
式典後、「戦前から戦後直後の厳しい環境を越えた皆さんの、母県とのつながりを三世四世に引継ごうという思いを感じた」と感想を語った高嶺県議会議長は、「留学や研修を通じた若い世代の交流の必要性を感じた」と述べ、将来の人材交流活性化へ意欲を見せた。