ニッケイ新聞 2008年8月1日付け
第一回ブラジル移民船「笠戸丸」で移住した沖縄県人の子孫が七月二十六日、サンパウロに集った。第一回移民の約四割を占めた沖縄県人。会場となった県人会館サロンには、約百二十人の子孫が集まった。八月の県人移住百周年祭典を前に企画されたこのたびの集い。笠戸丸を軸に子孫だけで集まりを持つのは初めてのことだ。父母、祖父母の写真が飾られた会場で、参加者たちは自身のルーツとなった祖先の苦難に思いをはせ、感謝の思いを新たにしていた。
笠戸丸でブラジルに渡った沖縄県人は、全移民七百八十一人中、三百二十五人。全体の約四割を占める。
午後三時過ぎから始まった集い。与儀昭雄県人会長は「笠戸丸が来たからこそ、今年の移民百周年がある。百年前に移住した祖父母、曽祖父母たちは、言葉も通じない苦労の中、物はなくても心の中には夢と希望があった。その犠牲の上に、今の私たちの確かな歩みがある」と先人へ敬意を表し、「祖先たちも天上で喜んでいることでしょう」と子孫の集いが実現したことを喜んだ。
実行委員会の宮城あきらさん(沖縄県人移住百周年実行委事務局長)も「笠戸丸移民の苦労は本で読み、話に聞いていたが、今日初めて家族が集うのを見て感無量です」と述べた。
今回の集いにあたっては、笠戸丸移民三世の与那嶺ルーベンスさん(67)を委員長に、子孫らが準備を進めてきた。
当日は四十七の構成家族中、十九人の子孫約百二十人が参加。与那嶺さんにより、来場した子孫と、〃ルーツ〃となった県人移住者の名が紹介され、大きな拍手が送られた。
移住者の写真のスライドなども上映。舞台では沖縄民謡の演奏なども行なわれた。一品持ち寄りの料理を囲んで乾杯、歓談した後には、九人の子孫代表が舞台で父、祖父の生涯の歩みを紹介した。
午後八時、舞台でカチャーシの演奏が始まった。百年を経て集った笠戸丸移民の子孫たち。一世紀が過ぎてなお、誰もがそのリズムに自然に身を委ねていた。
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集いの日、会館の壁際には第一回移民として海を渡った県人の顔写真や家族写真、資料や、昔の沖縄の風景写真などが飾られ、訪れた人たちは自身の父母、祖父母の写真を指差し、またじっと見入っていた。
一九一二年に日本人として初めて自動車運転免許を取得したのは、笠戸丸で移住した比嘉秀吉氏だ。この日は娘のイダさん(83)、息子のヒデヤスさん(75)はじめ四世の世代までの十六人が訪れた。
比嘉氏はリオで運転手として働いた後、ジュキア線ペドロ・デ・トレードに移りバールを経営していたという。「(運転免許のことは)父が写真を見せて教えてくれました。ペドロ・デ・トレードで日本人に運転を教えていたそうです」とヒデヤスさん。
「思いがけない人に会えて良かった」と話すのは、日系初の歯科医となった金城山戸氏の次女、熊谷・金城ミヨコさん(81)。
賭博師として名をはせたイッパチ(儀保蒲太)と無二の親友だった金城氏。「フロレスタ耕地を出た父はイッパチさんと歩いてイトゥまで行き、そこで働いてサンパウロへ出てきたそうです」。
イッパチ本人にも会ったことがあるというミヨコさんは「とても綺麗な人でした。真っ黒な服で胸にカーネーションを刺していたり、俳優みたいでしたよ」と振り返っていた。