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百年の知恵=移民と「日本精神」=遠隔地ナショナリズム=第6回裏切られた自尊心=理解されない移民の心情

ニッケイ新聞 2008年7月26日付け

 「どんなに考えてみても、たとい百歩をゆずって、敗戦が事実だとしても、二十万同胞の在住するブラジルに、正式な使節が派遣されないという理由はない。ただこの一事によっても、敗戦ということが、いかにでたらめであるかわかる」(半田知雄著『移民の生活の歴史』六百四十八頁)。
 これは、移民の自尊心に関係する重要な心理だった。使節が送られないことは、自らの存在が日本政府から顧みられていない、つまり棄民である証拠であり、それもまた「ありえないはず」だった。
 だが、日本は勅使を送らなかった。送れる状況にはなかったのかもしれない。もしくは優先事項ではなかった。切ない事実だが、それが二十万同胞に起きた現実だった。
 未曾有の極限心理におかれていた移民一般にとって、敗戦を信じることはできたはずだが、そのためには、納得できる伝達経路、段階を経る必要があった。
 このあたりに、後に続く不幸な事件が起きる遠因が秘められていた。
 終戦後一年ぐらいで、日本からの郵便物は再開された。しかし、すでに「想像の政治共同体」に託す想いが一線を越えてしまっていた移民一般は、親類からの私信すらも偽ではと疑う心理になっていた。
 待ちに待った邦字紙は一九四六年からサンパウロ新聞、南米時事、伯剌西爾時報、パウリスタ新聞などの発行が開始されたが、勝ち組、レロレロ、負け組と各々の主張が出されたために、即急な事態の収束にはつながらなかった。
 アンダーソンは「想像の~」の特性に関して、こう説明する。
 「国民は一つの共同体として想像される。なぜなら、国民のなかにたとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は、常に、水平的な深い同志愛として心に思い描かれるからである。そして、結局のところ、この同胞愛の故に、過去二世紀にわたり、何千、何百万人の人々が、かくも限られた想像力の産物のために、殺し合い、あるいはむしろ自らすすんで死んでいったのである」(『想像の共同体』十九頁、87年)。
 終戦六年目の一九五一年、日本に多数の永住帰国者が渡り、日本の新聞にも報道された。半田氏はその時のことを、次のように記す。
 「日本の新聞が伝える勝組の姿は、『時代おくれの人間のカリカツーラ(戯画)』としてのそれであった。移民社会におこった悲劇については、時代の先端をいくジャーナリストといえども日本では到底理解できるものではなかった。忠良なる臣民であったがために、祖国を信頼していたが故に、無知とあなどられ、時代おくれと軽蔑されながら陰謀にまきこまれていった移民の心情は、移民の歴史を知り、異国に苦労をかさねた人々以外には理解することができなかった」(同六百五十九頁)。
 結局、二十数人の尊い命が失われ、勝ち負け紛争の事態が収束するまでに十数年を要した。ここから多くの何かを学べるはずだが、残念なことに、まだ、まとまった取り組みは少ない。(続く、深沢正雪記者)



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