1984年1月12日、パラナー州の州都クリチーバの中心部にあるボカ・マルジータ広場で、20年続いている軍事政権に反旗を翻し、国民による大統領の直接選挙を求める運動「ジレッタス・ジャー」の最初の集会が行なわれ、そこに4万人集まった。そこから再民主化の歴史が動きはじめた。
「ジレッタス・ジャー」運動は、この前年の83年からすでに起こりはじめていた。1964年3月31日に軍部がクーデターを起こして以来、ブラジルでは大統領が議会の投票によって選ばれていたが、議会そのものの大半が軍政支持政党の国家革新同盟(ARENA)の議員だったために、実質的には民衆の意向が通ることはなかった。
だが1980年に政党結成の自由が与えられ、82年の州知事や連邦議員の選挙でARENAが反対制勢力に押され気味で軍政が威力に陰りを見せると、国民は民主政治復活を強く望むようになった。
84年に入り、この「ジレッタス・ジャー」の動きが激しくなった。民主運動党(PMDB)の議員たちの呼びかけで最初の本格的な集会がはじまったわけだが、主催者側の想像を遥かに超える民衆の立ち上がりに、全国が刺激を受けた。
この翌日の1月13日にはリオ・グランデ・ド・スール州のポルト・アレグレでも集会が起き、それからさらに2週間後にはサンパウロ市のセー広場で10万人を集めた。この動きは次の2カ月のあいだにさらに加速し、その間に行なわれたリオやサンパウロ市のアニャンガバウーで行なわれた集会には遂に100万人が集結した。
この動きにもかかわらず、84年4月25日、議会は大統領を国民による直接選挙で選ぶという憲法改正案を却下した。改正に必要な得票数は320票だったが、22票足らなかった。
だが、いったん変わり始めた世の流れは止めようがなかった。85年1月15日、それまで通りに議会の投票で選ばれた大統領選挙で、民主化勢力の推すタンクレード・ネーヴェス氏が、軍政支持側の代表パウロ・マルフ氏を破って当選を果たし、軍事政権は21年にも及ぶ支配に終止符を打つに至った。
30年前のこの日に民衆が立ち上がっていなければ、ブラジルの民主化はもう少し遅れたものになっていたかもしれない。(12日付エスタード紙より)