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百年の知恵=移民と「日本精神」=遠隔地ナショナリズム=第1回「日本人」という自覚=強かった村への帰属意識

ニッケイ新聞 2008年7月19日付け

 ニッケイ新聞の百周年特別企画「百年の知恵」連載シリーズ第四弾は、日本移民のアイデンティティ形成を分析する『移民とナショナリズム』だ。「遠隔地ナショナリズム」という現代的な考え方をコロニアに当てはめたとき、日系社会独自の出来事と思われていたことが、実は、世界で話題となっている移民現象全体に共通している可能性が浮き彫りにされてくる。例えば、祖国を愛するがゆえに同胞を傷つけあった勝ち負け抗争の心理面などを、この観点から改めて考え直してみたい。(編集部)

第1回「日本人」という自覚=強かった村への帰属意識

 第一回移民船「笠戸丸」が神戸港を出港した一九〇八年(明治四十一年)四月二十八日ごろ、乗り組んだ移民の主たるアイデンティティは、まだ「日本人」ではなかったという。
 というのも、日本はまだ幕藩体制から近代国家への移行の最中であり、伝統的な考え方や風習の残っている地方の農村部の出身者が多かった移民にとって、帰属意識のある集団は「藩」や「村」であった。
 慶應義塾大学総合政策学部の小熊英二教授はSFCフォーラム・ニュース五十一号の中で、「その自覚(日本人という意識)の最終的な定着は明治以降である。江戸時代の『国』は藩や村を指し、また、身分制度があったため、日本人という集団単位で考える発想はなかった」と説明している。
 ブラジル移民が始まった頃は、日本国内では藩を超えた鉄道交通や情報伝達手段の発達をへて、ようやく文化の均質化が起き、「日本人」が生まれ始めた時代だった。
 いわゆる「共通語」としての日本語が成立したのも、「国民的同調装置」ともいわれる機能をはたしたラジオの普及以降といわれる。
 新聞はいくつもあったが、識字率は現在ほど高くなく、一部の知識階級を中心とした媒体だった。
 ラジオの正式放送開始は一九二五年三月であり、それ以前の移民は、ブラジルに到着してコーヒー園で農業労働を始めても、同じ「日本人」でありながら他県出身者とは会話も成立しない場合もあったという。
 ブラジル移民のエスニシティ問題を研究し続けている前山隆は次のように説明する。
 「移民大多数は、やや閉鎖的な、一種の地域共同体の一単位であったコーヒー・プランテーションでブラジル生活の体験構築を開始したが、人種的な分割統治の原則で耕地内にはふつうイタリア移民、ドイツ移民、スペイン移民、ブラジル黒人等が労働者として混在していた。このような多人種的な状況のなかで、かれらは事々に『日本人(ジャポネース)』と呼ばれ、日本人として扱われ、かれら自身も次第にますます日本人になっていった」(七十六頁)。
 日本国内ではまず起き得ない特殊な状況に、移民は最初からおかれた。
 一般の日本人は、日本国内での新聞やラジオ、テレビなどのメディアの発達と共に日本人になっていった。
 その一方で、「村」への帰属意識が強かった初期移民はブラジルのコーヒー耕地という多人種の混じった国際的な環境の中で、独自に日本人としてのアイデンティティを固めていった。(続く、深沢正雪記者)