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上野氏がパ州公職から引退宣言=「今年いっぱいで花道」=約半世紀の政治家人生=今後はサンパウロ市で若手育成に

ニッケイ新聞 2008年7月17日付け

 「今年いっぱいで花道。人はけじめが大事」。移民五十周年時に三笠宮殿下パラナ州歓迎委員長を務めて以来、今回の百周年祭典委員長まで半世紀にわたり、パラナ日系社会のリーダーを任じてきた上野アントニオさん(86、二世)が、ついに今後の進退を語った。生涯の半分以上、四十四年間を政治家として過ごし、うち連邦下議は三十二年間連続という大記録まで打ち立てた。今年いっぱいでパラナ州の役職を辞したあとは、主たる活動の場をサンパウロ市に移し、日伯関係を担う政治家になれる若手の人材を育てる計画をもっている。
 北パラナのカンバラーに生まれた上野さんは、同地の〃尋常小学校〃で教育を受けた。「私が二十三歳の時、終戦だった。一つの町に勝ち負けの関係で、日系人が二つ、三つのグループに別れていた。五~六年がかりでみんなを説得し、一緒になってもらった」と六十年前を振り返る。
 「終戦直後、日本は戦争に負け、みんなの心は荒んでいた。相撲、野球、陸上など、スポーツ活動で心を癒す必要があると友人たちと話し合った。それでみんなに檄をとばし、団結を呼びかけた」。
 勝ち負け紛争によるコロニア分裂を修復して回りつつ、その統合の過程で、州内日系団体を統合したパラナ文化運動連盟(通称リーガ)を創立させた。
 「一九四七年、日本の青年会と同じものを作った。その団体(リーガ)が今日まで続いている」。その二十年後、六七年にパラナ日伯文化連合会(通称アリアンサ)が創立された。こちらは文化活動を中心にしたものだ。
 つまり、戦後、同州の日系団体はまずスポーツで親睦の基礎固めをし、続いて文化を振興し、この二つを両輪にして活動を重ね、全州的な団結を築いてきた。
 「政治面でもそう。一丸となっている」と上野さんはいう。この団結が日系政治家をブラジル政界に押し上げる風土を醸成した。
 二十三歳の時、上野さんはアサイー市へ移転した。一九五四年、ブラ拓が創立した移住地だけあって日系人の影響力は強く、最多得票で市議に当選、政治家の経歴の端緒となった。
 移民五十周年、初の皇室ご来伯となった三笠宮殿下の時は、歓迎委員長を任じ、パラナ日系社会はアプカラーナに農学校を創立し、州政府に運営委託した。現在まで続くその伝統校からは、多くの日系農業技師が生まれたという。
 市議を二期、続いて州議を一期、六七年から連邦下議を三十二年間連続つとめるという大記録を打ち立てた。その間、日本訪問回数は五十五回にもなる。
 天皇陛下との謁見の回数は二十七回、皇太子さまとは今回で十八回を数えた。ブラジルで、最も皇室に近い人物の一人といって間違いないだろう。日本との太いパイプをもち、日伯関係に尽力し、「国際派」議員として知られ、伯日議員連盟会長も歴任した。
 経済使節団を連れて訪日した回数も三十五回を数える。自らが創立に関わったパラナ日伯商工会議所でも会頭を長年やっており、九月十九日に三十周年を迎えるのを記念して、日伯経済シンポジウムを計画中だ。
 上野さんが見るところ、パラナ最大の百周年の成果は、ロンドリーナに連邦技術大学を誘致するのに成功したことだ。二年前から授業を始め、学生は二百四十人を数えるという。校長は日系二世の今村マルコスさんで、学生の三割は日系人。
 「私も八十六歳。あんまり出しゃばるわけにはいかない。今年いっぱいで花道を作ってパラナの役職は辞め、サンパウロで若い人を政治面で育てるプロジェクトをやりたいと思っている。私の人脈を大切にして、今までとは別の形で日伯関係に貢献していきたい」。
 個人的には、六十八年間、日記を書き続けており、八十八歳までに伝記を出版する計画もある。
 「でも、人生終焉の地はパラナと決めている。あそこで生まれ育ち、政治家になった。私の骨はパラナに埋める」。