ニッケイ新聞 2008年6月26日付け
一九九五年に日本移民百周年記念事業の一環として、日伯両語で出版された「家族構成と社会移動―サンパウロ州在住日本人についての研究」の著者で、カルドーゾ前大統領夫人のルッチ氏が二十四日夜急逝と二十五日伯字紙が一斉に報じた。
十九日、皇太子もご出席のサンパウロ市でのコンサートにカルドーゾ氏とともに出席したルッチ氏は、終了後に胸の痛みを覚え、入院。二十三日に退院後、別の病院でカテーテル検査を受け、前回検査と変わらずとの診断を得て翌朝帰宅したが、夜、子息のパウロ氏と電話中に倒れ、帰らぬ人となった。七十七歳だった。
アララクアラ出身で、一九五三年に、サンパウロ総合大学(USP)在学中に出会ったカルドーゾ氏と結婚。結婚直後はUSP人文学部門で助手を務めたりしながら子育てにもいそしんだが、人類学者としての名声も高く、カルドーゾ氏の大統領就任後は、その活躍の場はさらに広がった。
五〇年代から社会運動の流れに着目という先見の明に長けた学究であった彼女の生涯テーマは、日本人の文化変容(文化の相互浸透)と社会における女性の役割。一九七二年の修士論文の題は、「日本人の文化変容に関する青年組織の役割」。一九七二年には、前述書のもととなる論文により博士号を取得した。
博士号取得後も、米国コロンビア大学などで研究。世界開発銀行女性問題審議会議長を務め、国際労働機関で国際化の社会的側面に関する委員会に加わるなど、国際的に活躍する一方、カルドーゾ政権で発足した連帯社会計画の責任者として、一九九五~二〇〇二年の間に、三百万人の識字教育と十一万四千人の職業訓練を推進した。
葬儀は二十五日十一時からサンパウロ市のサーラ・サンパウロで行われ、多数の政治家らが列席した他、民主社会党(PSDB)は同日予定の党結成二十周年祝賀会を中止。ルーラ大統領は、三日間の服喪を命じた。
軍政下での亡命生活時には、チリやフランスで教鞭をとって家族を支えた他、帰国後も研究施設開設、後進育成など、公私共に多くの業績を残したルッチ氏の遺体は、本日十一時、コンソラソン墓地に埋葬される。