大阪の叔母が、叔父の言いかけた言葉を止めたのは、このことだったのだと目の当たりにしたのである。
港からカミノ・デル・フォルチンという通りまで、どれ程の距離かいまも知らないが、街から出て車は草原の中の道を走った。
叔父の家に着くと、三ヶ月前に強風が吹きユーカリの大樹が倒れて、住んでいた家は真っ二つに割れたとのことで、その大樹を指しながら、道を隔てた日本人の持ち家を借りているのだと言って案内されたのは「農家だからこんなものだろう」思える家だった。
家のまわりは見渡す限り草原で、その中にポツンポツンと、ウルグアイ人の家が見えるのみ、近くで目に付いたのは、畑を耕しているピヨンと呼ばれていることを後に知った日雇いの作男二人で不思議な静けさと草の匂いが頭に沁みた。
日本でも北海道ならこんな風景は当たり前だろうが、私は土佐の町と大阪しか知らず、人間も車も見えない世界に初めて心細さを覚えた。閉まった窓の縁に、紙からはみ出していて包まれているとは、とても言えないむき出しの大きなパンが立てかけられていた。まずそれが「信じられない光景」として目に入った。食べるものをこんなふうにしてと思ったが黙っていた。パンは毎朝契約しているパン屋から配達され、このように置かれていると後で聞かされ、これが次々に起こる驚きの始まりとなった。
花婿の家、実の叔母の家であるが、連れてこられてから小一時間ほど「休んでいなさい」と言われただけで、ただうろうろとしていた。外は寒くてシルクのドレスで戸口から出ようという気にはならなかった。寒いから着替えたかったのだが、どこに置かれたか私の手荷物が見当たらず、聞いても言葉を濁すように応えてもらえず、私から離れようとしている感じがしたが、それも忙しいせいかと思った。
「臨時なものでね、この家は」などという言い訳がましい言葉が、忙しげに働いている女性や叔父、叔母の口から出た。そう大きくない土間に二メートルほどの、木のテーブルが用意され、女性達は食べ物作りに忙しかった。私はテーブルに次々に出て来る日本とは違う皿の上の食べ物を立ったまま見ていた。そのテーブルの中心に、誰が見てもウエディングケーキと分かる、新郎新婦の人形が飾り付けられたケーキがあった。私は何もその事にはふれず、
「叔父さん、このテーブルは何でしょう?」と聞いた。 叔父は、
「ウー…」と言葉につまったような声をだした。
「私を歓迎する食事ですか?」と私は重ねて尋ねた。
「まぁ、そんなもんよ」と土佐のイントネーションで叔父は答えた。
決めてあった時間になったらしく、車が何台か着き、男たちも加わり十四人程がテーブルについた。これが比較的に近くに住んでいて、親しい交わりをしている同胞なのだと後で知った。紋切り型の挨拶の後、
「では、指輪を」と誰かが言ったが、現在もそれを言ったのが誰だったか知らないし、テーブルに居た人達も三組の方しか思いだせない。あるいはその三組の家族が揃って十四~十五人だったのかも知れない。「指輪を」と言われた時、私はどんな顔をしただろうか、痩せた二十五歳の私の姿を思い出せるだけで、体温があがったとも下がったとも思い出せない。意外に落ち着いて私は言った。
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