「いま叔父さんから歓迎会だと聞きました。歓迎会で結婚指輪を貰うのもおかしいし、考えなくてはいけない結婚だと気が付きましたので、その指輪はお断りいたします」
結婚を断って言葉も解らない国で、どう生きるかなどということは頭に浮かんで来なかったし、所持金のことにも思いは至らなかった。ただこの結婚を断らなくてはならないと、それだけが思われ、それ以上は何も言わず、私はひたすら黙した。
私の申し出に反論して、それでも結婚式をするべきだと言う人は誰一人としてなく、テーブルについている人達も黙したままだった。四~五分ぐらいして、
「私がお父さんの所へきた時は、一ケ月間待ってもらいましたよ」と一人の夫人が私をかばってくれた。後に名前を知った山本邦子夫人だった。この言葉に私は「おやっ」と思ったが、深く思いをはせることもせず聞きのがした。後に名前を知ったこの山本さんも同席の池田さんの奥さんも、そのむかし花嫁移民として渡航されたのだった。この時の山本さんは四十歳をすこし出たぐらい、池田さんの奥さんは三十三、四歳であっただろうか。この山本さん、池田さんが吉本家に比較的に近く住んでいて、ことに親しいらしいことが解ったのはその後、間もなくのことであった。
食事になり、私はアッサードと呼ばれる焼肉を勧められた。
「この肉にはね、これをかけて食べるもんよ」と教えられたそのタレは、玉ねぎ、ニンニク、トマト、サウサ等のみじん切りを、塩、コショー、サラダ油、レモンで味を付けてあった。切り分けた肉に乗せて、勧められる通り口に入れてみると、それは噛むほど良い味がした。
「ニンニクの生は嫌じゃないかね、日本人は」と聞く老夫人がいた。
「噛むほど味が出て美味しい」と答えると、
「いや、驚いた、このムチャーチャ(少女)は、ウルグアイジョ(ウルグアイ人)になれるとよ」と熊本弁が返ってきて和やかな食事が続いた。
このような焼肉は初めてであり、ましてやこのタレはわたしの舌が生まれて初めて味わった絶品だった。今でもこの美味しさを我が家独特のタレとして大切に守りつづけ、ウルグアイに行くたびに、タレに入れる数々の薬味をミックスしたアドボを買い込んで来る。
先にモンテヴィデオに帰った従兄から、私が結婚を拒否したことを聞き知っていたにもかかわらず、有無を言わさず式を挙げることが皆の作戦だったと知ったのは、ウルグアイは南米で唯一離婚を認めている国で、従兄と離婚手続きが終わってからのことである。「騙し討ちにしようとしたのよ」とは、私の世話をしてくださった老夫人のふとこぼした言葉だった。
到着の夜ガランとした黴くさい部屋に木製の古いダブルベッドが置いてあり、これは新婚の夫婦に用意した寝室とおもわれた。思われたと書くのは用意されているふとんも、この一家が移住した当時もってきたらしいものと想像できる昭和初期の布に重い綿をいれて仕上げたもので、シーツすら新しく購入されたものには見えなかったからである。
この部屋のこのベッドに寝かされるとおもったが、結婚は破談のため、その夜、私はその部屋ではなく叔父、叔母と、知的障害児の娘と同じ寝室の一緒のベッドの一番奥に寝かされた。
タグ:ウルグアイ