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日系最古の教会クリスト・レイ=38年建設、いまは廃墟=「60年前は賑やかだった=兵どもが夢の跡…

ニッケイ新聞 2008年6月20日付け

 兵(つわもの)どもが夢の跡――。ノロエステ線プロミッソンのゴンザガ地区に、ひっそりと日系最古の教会がたっている。赤レンガ作りで一つの塔を持つ建物では、今ではミサも行われなくなり、廃墟のような様子になっている。だが、かつては日系カトリックの一大集団地であり、母県の協力の下、見事な教会を建てるほどの栄華を誇った時期もあった。昨年十二月にプロミッソンで行われた『荒野の人 上塚周平』の刊行祝賀パーティの折りに取材した内容に、最近の事情を追加取材して補足し、貴重な〃コロニア遺産〃ともいえる建物の歴史を振り返った。
 プロミッソン市は人口三万人。ジェラルド・シャーベス・バルボーザ市長自らも「ここは日本人が始めた町だ」と誇らしげにいう。地名の語源は「Terra prometida」(約束の地)で、開拓地らしい期待が込められた名前だ。
 上塚周平は一九一八年、ノロエステ鉄道のエイトール・レグルー駅から四キロの地点から広がる千四百アルケール(三千三百六十ヘクタール)の土地に、イタコロミー植民地(上塚第一植民地)を拓いた。
 『移民の生活の歴史』(半田知雄、家の光協会、一九七〇年)によれば、「エイトール・レグルーを日本人は口がまわらずにテレグルといっていた。エイトコ・エグルといったのはしゃれだろう」(二百七十二頁)とも書いている。
 創設にあたり、上塚は多彩な人材を引き込んだ。笠戸丸以前の「神代の時代」の渡伯して移民の草分けと言われた鈴木貞次郎を〃参謀〃に、笠戸丸移民を導入したカルロス・ボテーリョ農務長官のサンタ・コンスタ農場で七年も勤め上げて「名監督」と呼ばれていた〃任侠の人〃間崎三三一、のちのサンパウロ州新報社長の香山六郎からも協力をあおいだ。
 同地で生まれて現在まで住み続け、唯一、上塚周平と直接に話をした経験のある安永忠邦さん(87、二世)は、「プロミッソンの最盛期は一九三〇~三五年頃でしょうか。千三百家族はいました」という。
 現在は百五十家族ほど。「十分の一になってしまった。戦後にパラナ、サンパウロに移った人が多い」という。
 ゴンザガ地区はその一角にあり、幹線道路から三キロほど未舗装路をいった先に、三八年に建てられたクリスト・レイ教会がある。
 『移民四十年史』(香山六郎、四九年)には武内重雄神父が一文をよせ、このゴンザガ地区が、二三年に渡伯した有名な日本初の海外派遣布教使、中村ドミンゴス長八神父の根城だったと書いてある。現在、百周年を機に、日伯司牧協会によって聖人・福者に次ぐ尊者(神の僕)としてローマ教皇庁に登録する運動が進められている。
 イエズス会のドイツ人宣教師で、広島や岡山で七年を過ごし、日本語が達者なエミリオ・キルヘル神父が二八年に渡伯。中村神父と相談して翌年に前者がゴンザガ地区へ、後者がアルバレス・マッシャードに移り、ともに日系カトリックの一大拠点を形成した。
 キルヘル神父同様にドイツ人で、ほぼ同じ期間に日本に滞在した経験のあるアウグスチーノ・ウツチ神父も続いて来伯、「同師は南大河州のドイツ人集団地を二回も訪れて基金を募集し手づから左官の仕事もしノロエステ沿線稀に見る壮麗にして優雅な聖堂をゴンザガに建てた」(『四十年史』三百七十四頁)とある。
 プロミッソン市議会サイト(www.camaraprom issao.sp.gov.br)によれば、この建物は、「日本移民によって建てられた最初のカトリック教会」だという。

今村教会堂の名工が関与?=鉄川与助が関った可能性

 「木造の部分はうちのパパイが作った」というのは、森久マリアさん(70、二世)。父、諌山(いさやま)虎作さんが一人でやった仕事だという。懺悔室や椅子、扉などみごとな装飾だ。
 マリアさんは、今ではガランとしてしまった教会の中を見渡しながら、懐かしそうに振り返る。「日本語を使うドイツ人のバードレ、アゴスチーニョとエミリオがここに住んでいました。小さい頃を思いだしますね。年に一回大きなフェスタがあって、植民地中の人が集まって日本人があふれていました」。
 夫の森久昭治さん(79、広島県)も「本当に寂しいことです」と言葉をつなぐ。
 忠邦さんはいう。「私が子供の頃、六十~七十年前はとてもにぎやかでした。二百十三家族も住んでいたんです」。今ではサトウキビ畑が多いこの一帯も、当時はコーヒーが全盛だったという。
 プロミッソン教区サイト(www.paroquiade promissao.org/gonzaga/gonzaga.htm)によれば、この設計は日本のイエズス会で行われ、中世ドイツの様式を汲むものだという。使用されたレンガは十五万個に及び、わざわざ教会横にレンガ焼き場を作って地元の土で焼成し、信者が労働奉仕して建設を進めた。
 同文書には「コロノ暮らしで金のない日本人は当時は、収穫したカフェ袋をそのまま持ってきた。時にはそれが一千袋も集まることがあった」と当時に信者の献身ぶりが記されている。
 コレイオ・デ・リンス紙〇六年十二月七日付けによれば、「クリスト・レイ教会は、福岡県今村にあるサンミゲル教会の複製」だという。「収奪農業のやりすぎで土地が衰え、多くがパラナ州などへ移った」とも。
 市広報にも「福岡県からきた日系カトリック信者の手によって建設は実現された」とある。また「建設に関わった福岡県出身の信者の一部は、一五四九年にフランシスコ・ザビエル宣教師から洗礼された子孫(隠れキリシタン)である」とも書かれている。
 現在ビリグイに住む安永信一さんは、「この植民地はカトリック信者が多かった。福岡県庁もお金を出してくれ、それで建設したんだと聞いています」という。父の伯男さん(故人)は、プロミッソンの市議を九回も勤め上げた有名人だ。
 この未舗装路の両側には、「かつて日本人の家ばかりだった」(信一さん)だが、今では廃墟ばかりで、数軒にはブラジル人が住んでいるという。
 教会は今もしっかりたっているが、その横にある司教館跡はかなり崩壊が進んでいる。忠邦さんも「二〇〇七年初めに来た時は、まだ瓦があった」というが、今では廃墟然としている。「五年ぐらい前までは、年に一回だけミサをやっていた」。
 すぐ隣に最後の日本人が住んでいたが、その頃に強盗被害や高齢化のために町に引っ越ししたため、完全な無人教会となった。
 壮麗な教会を建てたキルヘル神父は一九四八年、「戦後の荒んでいる人々の心を宣教するために日本に帰った」という。
 確かに福岡県大刀洗町には、有名な今村教会堂がある。長崎を中心に多数の教会を建設した鉄川与助氏が設計・施工したもので一九一三年に完成し、二〇〇六年に県指定文化財に指定された。
 写真で見た今村教会堂とクリスト・レイ教会の最大の共通点は、どちらも赤レンガ作りであること。今村は正面に八角の双塔がそびえているが、ゴンザガの方は四角で一つしかない。しかし、後側からみると基本的な形は同じように見える。「複製」とはいえないまでも、何らかの共通した設計思想があるかもしれない。
 日伯司牧協会の前会長、松尾レオナルド神父も「今村から取り寄せた図面に基づいて建てたと聞いています。図面の通りにはできなかったようですが、今村教会堂のレプリカといっていいものです」という。
 もし、そうであれば名工・鉄川与助氏にも関係ある可能性があり、今まで知られていない歴史のつながりが埋もれているかもしれない。

日伯司牧教会が復元へ=修復し再活用の道を模索

 日伯司牧協会(PANIB=青木勲会長)はこの教会を「ブラジルにおける日系カトリックのシンボル」と位置づけ、百周年記念事業として改修・再活性化を計画している。
 同市広報によれば、教会自体の改修、司教館の改築、神父用駐車場の復元、日伯両語によるゴンザガ区の歴史を書いた碑の建設、教会周辺の景観の修復、基幹道路までの舗装、上下水道の設置、汚水処理施設、照明、一般駐車場にくわえ、移民資料館(二百平米)の建設も予定している。資料館では、日系最古の教会の歴史を中心に展示する。
 十一月二十三日がクリスト・レイの日であることにちなんで、同司牧協会は全伯に呼びかけて同教会への巡礼を行い、日伯両側の来賓を招いて記念ミサを催す予定になっている。