ニッケイ新聞 2008年6月20日付け
皇太子さまご出席のもと、連邦下院議会では本会議開催中にも関わらず、特別に十八日午後、百周年記念の特別セレモニーが三十分ほど行われた。午前中の大統領公邸での式典に続き、全伯から集まった日系団体代表ら約五百人が出席した。十七日にブラジリア入りされた皇太子さまは、十九日午後にはサンパウロのお越しになり、本日午前十時過ぎに文協にお立ち寄りになり、そのあと、ガルボン・ブエノ街を車で通過される。これは、一般人が間近に皇太子さまをみられる唯一の機会のようだ。二十一日にサンボードロモ会場で行われるサンパウロ市百周年式典のご出席される予定だ。
百年目の記念すべき移民の日、六月十八日、議員や出席者で人だかりになった連邦下院の本会議場の通路を、皇太子さまがゆっくりと入場された。日本ブラジル議員連盟会長の麻生太郎元外務大臣も壇上に上がり、全員が起立して両国歌を斉唱した。
キナリア下院議長が歓迎の挨拶をし、「根本的に異なる文化の違いに直面した日本移民は、畑仕事の合間に、サウダーデ(郷愁)という言葉を飽きることなく繰り返したことだろう」と思いやった。戦前の日本移民がコーヒー産業に貢献したように、「在日ブラジル人は日本の産業に寄与している」と比較。「日本文化はブラジル社会のあらゆる側面に影響を与え、国家建設に貢献した」と讃えた。
同議長の短いアナウンスのあとに、突然場内に、天皇陛下の音声が流れ、皇太子さまも含め、その場に居合わせた一同は驚いた。
同議長は「天皇陛下が皇太子時代に来伯された一九六七年時のご挨拶の音声です。深い友情をしめそうと流しました」と説明し、ようやく会場は納得した様子を見せた。
皇太子さまが演台に立たれると万雷の拍手が起きた。「二十六年ぶり訪れ、みなさまと共に移住百周年がお祝いできることを嬉しく思います」とのお気持ちをのべ、「昨日ブラジリアの町を見て懐かしく思いだしました」との感慨をもらされた。
そして「次の百年に向け、日系人が日伯関係の架け橋となり、両国関係がさらに発展することを期待します」との言葉で締めくくられると、全員が立ちあがって大きな拍手を送った。
伯日議員連盟の飯星バルテル連邦下議は「百周年の機会にバイオ燃料、新幹線方式採用などの関し、議連は力を尽くしていく。一過性の祝典だけに終わらない活動をしていく」と力強く演説し、最後は日本語でも歓迎のメッセージを送った。
ウイリアム・ウー連邦下議が続いて演壇に立ち、「母は東京生まれ、父は台湾、妻は韓国です。このように混淆しながら平和に暮らしているのがブラジルなのです」と強調した。ブラジルには最大の日系社会があるが、日本にもデカセギが三十万人も向かい、「ポルト・セグーロ(安全な寄港地=ユダヤ系にとってのイスラエル)になっている」などと語った。
パラナ州選出の高山ヒデカズ伯日議連会長も「我が州からも傑出した日系人は多く出ている」と紹介し、最後にキナリア議長は、百個限定で制作した百周年記念メダルの第一号を皇太子さまにプレゼントした。
会場を出ようとされる皇太子さまに、出席者が次から次ぎへと握手を求める場面が見られた。
通路でお見送りしていた日本で今年、ミスブラジル百周年に選ばれた稲垣アドリアーナさん(17、三世)が、皇太子さまに三年の日本滞在で学んだ日本語で「忙しいですか」と問いかけると、殿下は「忙しいです」と答えられ、「ちょっと日本語を勉強しています」と返すと、「がんばってください。おきれいですね」と答えられたという。
アドリアーナさんはニッケイ新聞の取材に「緊張しました。でもチョー優しいひと」と興奮冷めらやらぬ様子で殿下のお人柄を語った。
会場にいたブラジル人ジャーナリストからは「すごい人気で驚いた」との声が聞かれた。
同日午後五時から在ブラジル日本国大使公邸で、日系社会代表者ら約六十人との接見も行われ、皇太子さまは一人一人と丁寧に会話をされ、うれしさに嗚咽を漏らす出席者もいた。
笠戸丸模型に興味示される=山村さん「夢のようです」
下院議会の玄関ロビーには、本紙でも既報の、山村泰夫さん(66、広島県)=パラナ州クリチーバ市在住=が制作した笠戸丸の模型も展示されていた。帰りがけに、その模型に興味を持たれた皇太子さまは、模型の後にたっていた山村さんに、「あなたが作られたのですか」と声をかけられた。
山村さんは緊張しながら「1年かかりました」と答えると、「大変だったでしょう」とお気遣いの言葉をかけられた。山村さんは「笠戸丸で来られた人たちの想いを想像しながら作りました。それが出ていればいいのですが」と説明、山村さんは「殿下はうなずいていらっしゃるようでした」という。
ニッケイ新聞の取材に「殿下に見ていただけるとは想像もしていませんでした。夢みたいです!」と声を弾ませた。