ホーム | 日系社会ニュース | 人づくり、顧客重視の理念いまも=ポンペイア=ジャクト創立60周年式典=国内外から6百人が参集=西村氏「これからも立派に」

人づくり、顧客重視の理念いまも=ポンペイア=ジャクト創立60周年式典=国内外から6百人が参集=西村氏「これからも立派に」

ニッケイ新聞 2008年5月6日付け

 サンパウロ州ポンペイア市の農機メーカー「JACTO(ジャクト、マルチン・ムンドストック社長)」が今年創立六十周年を迎え、四月二十五日夜、隣市マリリアで記念式典が開かれた。コロニアから生まれ、世界有数の農機メーカーへと成長した同社。式典には地元はじめ、州内外各地、南米諸国、日本などから約六百人が来場。同社の歩みを振り返り、さらなる発展への誓いに拍手を贈った。創業者の西村俊治氏(97)も元気な姿で会場を訪れた。
 日本力行会を通じ一九三二年に渡伯した西村氏が同市に移ったのは三八年。当初は農機具修理のほか、空き缶を利用したマグカップなどを作っていたという。四八年九月のジャクト農機創立後は、農業用噴霧器の生産販売とともに、七〇年代に世界初のコーヒー自動収穫機を開発するなど、農機具の国産化に貢献した。
 七九年に社長を退任後は、西村俊治技術財団代表としてポンペイア農工学校で農業者子弟の教育に携わってきた。今年で二十六年、卒業生は七百人以上に上る。人づくり、教育への尽力は同校ほか、西村俊治小中学校(八九年~)、西村智恵子職業学校(〇五年~)として実を結んでいる。
 ジャクト社は三人の息子が社長を務め、八〇年代の経済危機、為替変動や農業不振の波を越え、国内はじめ百六カ国へ製品を輸出する世界有数の農機メーカーとしての地位を確立した。現在ではアジア市場向け拠点としてタイに工場を開設したほか、オレンジの自動収穫機「K5000」がテスト段階に入っている。
 記念式典には、サンパウロからも親交のある力行会関係者や同社元従業員・親族、ヤンマー・ド・ブラジルの後藤隆元社長、ブラジル京都会の杉山エレナ会長などが駆けつけた。
 州農務局代表やコーヒー収穫機開発時の農務長官パウロ・ダ・ロッシャ・カマルゴ氏、後藤猛領事、小林正博JICAブラジル所長など両国関係者も出席。西村氏が姿を見せると会場は大きな拍手に包まれた。
 今年から一族以外で初の社長に就任したムンドストック氏は同社のスローガン「人は一人では育たない(Ninguem cresce sozinho)を掲げ、関係者へ謝意を表すとともに、「次の六十年へ向け、これからも世界の食料供給に貢献していきたい」と目標を語った。
 同社経営審議会長の西村ジョージ氏は、「一人の勇気ある、努力家で働き者の男性により、ジャクトの歴史が始まった」と創業者、俊治氏を称え、石油缶を利用した噴霧器から始まった同社の歴史をスライドを交えて紹介。「〃壊れたら修理します〃という顧客尊重の哲学は今も生きている」と力強く語った。
 俊治氏退任後、経営方針をめぐって起こった内部対立にも触れ、それを越え同社を発展させた三社長を称賛。州農務局や、セラード開発に関わった日本政府と日本人、関連業者や従業員、そして家族を支えた母・智恵子さん(故人)にオメナージェンを捧げた。
 会場では西村氏に、先月日本で授賞式が行なわれた農業機械学会第一回国際賞の記念プレートが贈られた。同賞は農機産業振興と青年教育の功績に対し贈られたもの。西村氏は収穫機開発の思い出を振り返り、「カマルゴ氏がいなければできなかったこと」と感謝の意を表した。
 二代目社長をつとめた次郎氏(66、現ウニパック社長)は、「プロによる経営を目指してきて、ようやく形ができてきたと思う」と話す。長男の俊(たかし)さん(68、三代目社長)も「競争が多いので注意が必要だが、新しいものができれば伸びていくでしょう」と展望を語った。
    ▽   ▽
 翌二十六日にはポンペイア農校で記念昼食会が開かれ、約五百人が集まった。先夜に続き、西村氏が杖を片手に確かな足取りで来場すると、あいさつを求める人たちの長い列ができた。
 「世界中から来てもらって、ありがたいこと。これからも立派にやってもらいたい」。六十周年の感想を尋ねた本紙の質問に対し、西村さんは、「私は田舎者で、普通の人間ですから」と話し、「もう百歳ですからな。(周年事業は)これが最後でしょうなあ」と笑顔で語った。