ホーム | 日系社会ニュース | 白坂典男ショー「思い出がいっぱい」=20年ぶりのステージ=ニッケイ新聞社主催=文協大講堂満席に=観客は「鳥肌立ったよ」=木村ウ編集長も顕彰

白坂典男ショー「思い出がいっぱい」=20年ぶりのステージ=ニッケイ新聞社主催=文協大講堂満席に=観客は「鳥肌立ったよ」=木村ウ編集長も顕彰

ニッケイ新聞 2008年2月28日付け

 白坂典男さんの歌謡ショー「思い出がいっぱい」(ニッケイ新聞社主催)では、二十年ぶりの公演にもかかわらず文協大講堂が満員になった。白坂さんが一九八三年に日本の歌謡大会で優勝したことは、現在の日系社会におけるカラオケブームの端緒になったともいわれる快挙だ。八八年の移民八十周年以来、スポットライトの当たる世界からは一切身を引いていたが、日本移民百周年、ニッケイ新聞十周年などを記念して二十年ぶりにステージでマイクを握り、歳月を感じさせない熱唱を披露し、見事に二十曲を歌いきった。
 公演に先立ち、ニッケイ新聞社の高木ラウル社長は「彼が日系コロニアのカラオケブームの先駆けだ」と白坂さんを位置づけた。支援したレアル銀行から浜崎コウジ役員、ウイリアム・ウー連邦下議、小林ビクトルIPK代表も参加した。
 白坂さんもよく出演し、八〇年代に歌謡ショーで一世を風靡したジャパンPOPショーのネルソンさんと松田スザナさんもステージに上がり、さながら八〇年代の往時を彷彿とさせる光景が展開された。
 ショーの最初、二十五年前の優勝シーンがステージ左右の特設スクリーンに投影された。八三年に東京で行われた「第一回日本アマチュア歌謡祭」にブラジル代表として出場し、見事優勝した感動の場面だ。
 突然、白いスモークの中を本人が登場すると、万雷の拍手がわき起こった。
 日本で優勝した時、まだ二十歳だった若者は四十五歳になっていた。「思い出がいっぱい」「霧の摩周湖」などを歌い、曲間に軽快なトークも披露した。
 友情出演として、武村美智子さんと平田ジョーさんも歌った。白坂さんは「みんなでよく公演旅行したよね」と懐かしそうに言うと、平田さんは「ノリオはみんなの目標だった」ともちあげた。
 そして、共通の友人であり、支援者だった日伯毎日新聞ポ語面の木村ウイリアム編集長(九八年二月逝去)を偲んだ。「彼がいつも記事を書いてくれたから、我々はとても励まされた」(白坂さん)。九八年二月、二紙が合併してニッケイ新聞が創刊する直前、四十七歳の若さで心筋梗塞により亡くなった。十日が十年目の命日だった。
 招待された木村編集長の実姉、藤原信江さん(59)は「感動しました。とてもいいコンサートだった。今日おったら母もさぞや喜んだでしょう」と息子の死を嘆き、後を追うようになくなった母を悼んだ。
 ショーの後、「鳥肌立ったよ」「泣いちゃったよ」「すごく良かった」などと声をかけるファンが、三十分あまりも引きも切らずに押し寄せた。
 白坂さんは紅潮した顔のまま、「今日はとても幸せだった」と感想を語った。歌手活動を辞めた理由を「当時、歌で生活していくのは難しかった。ジョーはそれを続けている。たいしたヤツだ」と答えた。実業では美容師を選び、結婚して娘も生まれた。「妻も娘も、僕がステージで歌うのを見るのは初めて。二十年ぶりで緊張したよ」。
 入場料代わりに集められた一キロの保存食品は、約一トンにもなり、その場で、水害被害にあったペルイーベ市のオムロ・ジュリエッタ市長に寄付された。
 これを機に活動を再開しますかと尋ねると、白坂さんは「さあ、どうかな」と謎めかして笑った。