ニッケイ新聞 2008年2月23日付け
日本とブラジルが国交を樹立した後の一八九七年にリオデジャネイロ郊外のペトロポリスに開設され、その後百年以上も不明になっていた最初の日本公使館(大使館に相当)の建物の所在を地元在住の日本人が探り当てた。風雨で傷みが激しい洋館は現在売りに出されており、日本人のブラジル移住から百年を迎える今年、保存を求める声が上がっている。
この日本人は三菱重工の元駐在員、安見清(あみ・きよし)さん(67)=水戸市出身=。約三年前、百年誌用に調査を始め、知人の大学教授らの助力を受けながら公文書などを調べた。ペトロポリス市立図書館保管の市議会への報告書の中で「日本公使館が借りていた『四月七日通り』二十一番地の家が一九〇三年五月三十一日に明け渡された」との記述を見つけた。
通りは今も実在するが、住居表示が当時と異なり、さらに調べたところ、一八九七年八月に着任した珍田捨巳(ちんだ・すてみ)初代公使らが家屋に隣接するホテルに宿泊していたことが当時の新聞から判明。市議会への文書と合わせると「二十一番地の家が最初に開かれた公使館だった可能性が極めて高い」(安見さん)という。
一八八九年に共和制に移行したブラジルは、九五年に日本と国交を樹立。当時の首都はリオデジャネイロだったが、黄熱病が流行していた首都を避け、各国外交団は帝政時代の保養地で標高約八百四十メートルの高原都市ペトロポリスに大使・公使館を開設。日本公使館も一九一八年にリオに移転するまでペトロポリス市内にあったが、公的書類に残りにくい民間の賃貸契約だったことや、古い年代の登記簿が十分に整備されていないこともあって、正確な所在は分からなかった。
約五百六十平方メートルの土地に白い洋館が建つ当時の公使館は、所有者が四十三万レアル(約二千七百万円)で売りに出しているが、市条例で外観保持が義務付けられ増改築も禁止。割高な維持費用を敬遠してか、今も買い手はいないという。
安見さんは「この公使館は両国が友好の第一歩を踏み出した場所。日本文化の発信地など、懸け橋として保存を訴えたい」と話す。在リオデジャネイロ日本総領事館は「(日本政府として)どういう形で保存に協力できるのか、関係者と検討してみたい」としている。(ペトロポリス共同=名波正晴)