「サンジョアキンに入ってリンゴ作りをやってみたかった」。そう振り返るのは荒井貢(みつぎ、80、柳名「荒井花生」はないき)=イグアッペ在住、13年3月13日取材=だ。雪深い山形県米沢で生まれ育った。
親がリンゴ作りをしていた。「周りを見ても小さい農家ばかりで、日本の農業に将来性はないように感じていた」。それでも「自分たちが精魂込めて作っているリンゴの評価が知りたくて、長野のリンゴ品評会にこっそり出品したら10位に入った。すごく嬉しかったけど、地元の組合から『勝手なことをするな』って文句を言われた」と悔しがる。しかし全国でもそれなりのレベルだと、自信を持てた。
新潟であった第6回国民体育大会(1951年1月)の冬季大会スキー競技の部に山形代表として参加した輝かしい経歴を持つ。「自宅がスキー場のすぐ下だったし、スキー指導員をやっていたので、それで身を立てていける」と漠然と将来を考えていた。
「ブラジルには来たくなかった。でも親に言われて無理やり」。1959年、父政吉(まさきち)はもう50歳近かった。「父は日本の土地を全部売ってきた。だからもう帰るところはない」という強い覚悟で臨んだ。父にとっては人生最後のカケだった。労働力として25歳の息子の存在は不可欠だったに違いない。
戦前に移住した父の弟がピンダモニャンガーバにおり、その呼び寄せで来た。「彼は戦前、みんなに反対されて移民したが、結果的に成功していた」。その姿に父が強い影響を受けただろうことは想像に難くない。
ブラジルに到着した時、貢は「食べ物が豊富で驚いた。確かにこんな国はないと思った」という。「だって戦中戦後、着るものはない、食べ物はないという辛い時代だったから。うちは農家だから食べ物はあったけど、友達の中には弁当を持ってこれない人もいた」。
郷里の土地を売ったお金で、ビグアとイグアッペの間にあるイチ・ミリンに土地を買って、15年ほどバラの花作りをした。74年にサンジョアキンでリンゴ団地造成が始まった時は心が動いた。「山形の冬は雪がすごい。リンゴ作りって、雪の中に埋もれたやつを掘り上げるんだ。こっちなんて、あの作業の辛さに比べたらブリンカデイラ、何にもすることないに等しいと思うよ」。確かな技術も経験もあった。でも悲しいかな、収穫できるようになるまでの4年間を持ちこたえる営農資金がなかった。
そんな時代に川柳を始めた。「イチ・ミリンは何の娯楽もないとこ。パラナからきた川柳で有名な吉成(よしなり)豚児(とんじ)がいたので、それに刺激されてやり始めた。川柳を考えることが唯一の娯楽だった」。イチ・ミリンは最盛期には30家族以上いたが、今では2、3家族のみで、日本人会活動はなくなってしまった。
その後イグアッペの町に出て、こだわりのパステル作りを始めた。以来30年間その道一筋だ。「失業している時に、たまたまパステルやっている知り合いがいて、手伝いを探していたので、しばらくそのカマラーダ仕事をやった。その人が辞めるというので、道具一式をもらった」のがきっかけだった。
「イグアッペで一番美味しいと評判なんです」と胸を張る。月曜から土曜まで毎日200人ほどのお得意さんを相手にする。前夜に自分でマッサを用意し、午前3時に起きてマッサを伸ばしてパステルを作り、午前8時に開店し、正午前後まで。午後からは翌日の準備をする毎日だ。
「僕はカルネとケイジョの2種類しか作らない」という。あえて店をかまえず、屋台で通している。「パステルは庶民の食べ物だから、屋台の方が気軽に買いやすい」との信条だ。
「俳句は自然だが、川柳は人を詠むところが良い」とブラジル川柳社の主幹も務める。自分をブラジルに連れてきた父――その病が高じたときの様子を労わりの境地で詠んだ「癌を病む父は家族のウソも飲む」が最も思い出深い作品だという。(つづく、深沢正雪記者)