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――100周年まで生きてほしかった――53年前「選抜野球」の花形=〃野球の徳さん〃死去

ニッケイ新聞 2008年2月8日付け

 【ロンドリーナ】〃野球の徳さん〃の愛称で親しまれた小林徳雄さんが、昨年十一月八日、八十一歳で亡くなった。
 去る一月二十七日、リーガ・アリアンサの定期総会で、ブラジル球界で活躍した小林さんと、北巴運動連盟の創立メンバーの一人で、昨年十二月五日亡くなった古北政次さんの功績を称え、上野アントニオ氏の発声で、故人の二人に対し、一分間の黙祷が捧げられた。
 一九五五年五月、ロンドリーナ球場で行われた第七回全伯選抜野球大会(日伯毎日新聞社主催)北パラナ対サンパウロの優勝戦は、北パの小林投手、サンパウロの清投手が好投、一投一打にファンの血を沸かせた。
双方無得点のまま、延長十一回表を迎え、北パは、二死満塁のチャンス、小林(六番を打っていた)が清の五球目をみごとに捕らえ、右翼深々と会心のホームラン、4点をもぎとった。夕闇迫る球場は興奮と歓声につつまれた。
 あれから五十年。〇五年五月、あの舞台となったロンドリーナ球場は売却され、アセル(ロンドリーナ文化体育協会)は、カンペストレへの球場備品の搬送に追われていた。
 記者は、アセル正門前にあるビルの十三階の羽山さんのアパートのベランダから、五十年前の大熱戦譜を回想して球場をカメラにおさめ、小林さんの自宅を訪問して感想を聞いたことがある。
 徳さんは、この年、結婚五十年。金婚式の年でもあった。選抜大会で優勝できるまでは結婚しない、という強い決心だったという。第七回大会で優勝して三賞を獲得したため、同年十二月十七日に和子さんとめでたく結婚した。徳さんは、翌年の第八回選抜大会を最後に、栄光の思い出を胸に野球界から引退している。農業に専念するためだった。
 アサイのアモレーラ区の農場を兄一郎さんと共同で経営し、分家したのは四十七歳のときだったという。
 アモレーラ区に六十アルケールの土地を購入して出発、三十年の間に、アモレーラ区百五十アルケール、カンベ市に三百アルケール、さらにバイア州に進出して三千アルケールの大農場を経営するという躍進ぶりである。
 家庭では、二男二女の子宝に恵まれ、現在、長男浩さんと次男清さんが農場経営、長女ロザリアさんは婦人科医、病院経営の医師と結婚、次女エミリアさんは歯科医、大学教授で、それぞれ立派な家庭づくりに成功している。
 しかし、一家は困難な次期もあったという。八三年八月、アサイ市で、コントラモンを疾走してきたカミニョンが、長男浩さんを乗せて帰宅中の小林さんの車に激突、父子ともに骨折して、重傷を負った。浩さんは回復後に大学を中退して、父の農場経営を手助けしなければならなかった。
 障害を乗り越えて大成功者になった小林さんに「スポーツをやって、農業経営にも役立ちましたか」と質問したところ、「勿論ですよ、困難に耐えられる力はスポーツによって鍛えられたと思いますよ」と返事があった。今も強く印象に残っている。
日本移民百周年まで、ぜひ生きていてほしかった、と思う人が何人かいる。〃野球の徳さん〃もその一人である。(中川芳則通信員)