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益々盛んな皇室の国際親善=百周年に皇太子殿下ご来伯へ=日系社会あげて歓迎の準備=雅子さまご訪問に期待高まる

ニッケイ新聞 2008年1月1日付け

 天皇、皇后陛下を始めとする皇室は昨年もまた多忙な1年をお過ごしになられた。両陛下は「生物分類学の父」とされるリンネ博士の生誕300周年記念行事に招かれてスウエーデンと英国をご訪問になり親善に尽くされたし、皇太子殿下もモンゴルを公式訪問し日本との関係強化に力を入れ友情を築かれた。こうした皇室の国際親善のご公務は近年になり益々盛んになっているのは結構なことであり、これからも強く推進してもらいたい。皇室の国際交流がこんなに活発になったのは、今上陛下になってからであり、この友情と友好を深める活動を今後も進めて欲しい。そんなところへ移民100周年には皇太子殿下のご来伯も決まり、日系150万人にとってこれほどの喜びはない。
 振り返ってみると、皇室が外国に出かけるようになったのは、昭和天皇が皇太子だった大正10年(1921年)の欧州訪問からである。当時は今のような飛行機はないし、軍艦の「香取」をお召艦とし随伴艦「鹿島」と共に3月に出航して10月に帰国する。「文芸春秋」の随筆欄に「山本五十六」の著書で知られる阿川弘之氏が寄稿しているのだが、「香取」の艦長は沖縄出身の漢那憲和大佐で艦上ではデッキゴルフなどをお楽しみになったそうだ。
 私事になるけれども、旧パウリスタ新聞に篠崎実郎さんという営業を担当した元海軍兵士がいて機関兵として「香取」に乗り皇太子のお供をしたの自慢話を耳にしたのも懐かしい。秩父宮さまもオックスフォード大学に留学され、英国王ジョージ6世の戴冠式にも天皇名代として参列している。高松宮さまも海外への留学をご希望になったらしいが、これは時の政治的な背景もあったようで実現していない。このように昭和天皇になるまで皇室の国際交流が少なかったのは、江戸の鎖国政策の影響があったからだろうが、近ごろは皇室外交にも積極的である。
 とりわけ戦後になると、皇族方の外国訪問が多くなり、今上陛下が皇太子のころは頻繁に外遊され親善の実りを上げられた。両陛下は、先のご訪欧の折にエストニア・ラトビア・リトアニアのバルト三国を初めて訪れられたが、皇太子のころからだとこれで55ヵ国をご訪問したことになる。 皇室史上、こんな例はない。それにしても思い出すのは、陛下が皇太子のころに美智子妃殿下とご一緒にブラジルを訪問されたときの熱狂的な歓迎の渦である。あれは1967年の5月だったけれども、コンゴニアス空港から宿舎のオットン・パレスまでは赤と青の制服に金モールで飾った儀杖兵が槍を掲げ守衛する馬車に乗り、さながら陛下の鹵簿(ろぼ)を思わせるものであったし、あの混雑は物凄いの一語に尽きる。歓迎のために集まった日系人はお茶の水橋をいっぱいにし、玄関口の守りについた警備員らも移民らの熱気に押しやられるような情景は今も牢記している。
 パカエンブー球場での歓迎も凄い。まだ真っ暗闇の午前3時には移民たちが駆けつけ地方からは貸切バスが列をなした。8万人が集まり歓声を上げて移民の喜びを天に木霊したのも素晴らしかった。歓迎委員長は宮坂國人氏で「秋晴れや皇子迎えて國人泣く」と心からの感動を惜しみなく詠み皇太子殿下と妃殿下のサンパウロご訪問に感涙した。
 勿論、移民50年祭には三笠宮さまが、百合子妃殿下とご来聖になっているし、これが皇室のブラジル初訪問になっている。オリエント史を専攻の三笠宮さまは、東京女子大学などの教壇にも立たれた気さくなお人柄だったので大変な歓迎ぶりだったし、ご本人も夜を徹して原稿を認め移民たちにお言葉を掛けられたの記録が残っている。
 このように移民と日系社会にとって皇室の方々は近しい。今上陛下は皇太子のころを含めると3回もブラジルを訪れ、皇太子も秋篠宮も紀宮さま(黒田清子さん)も、常陸宮さまも確か故・高円宮さまもお出でになっている。皇太子殿下は、1982年10月にリオにお着きになり、サンパウロ、ロンドリーナ、サルバドールやマナウスを歴訪されている。当時は、浩宮徳仁親王であり、まだ独身で颯爽とした青年であった。若い学生らとの懇談にも気安く応じられ、ブラジルが生んだ奇才ポルチナーリの作品に深い感銘をうけたのが街雀らの話題になったりもした。
 時の文協会長・相場真一氏は「宮さまのご来伯は、世代の交代の時期にあったということで象徴的な意味があった。またブラジル官民があげて歓迎してくれた。こうした環境というものを日伯交流事業に生かしたらと思う(文協50年史)」と語っているが、この青年らしい若者の交流は日系社会が一世の日本人移民から二世と三世に移る変動を物語っているような印象を深く植え付けたと思う。
 文協50年史には、日本館の美術室を見学される浩宮さまと案内の大口信夫大使と井上ゼルバジオ氏の写真が掲載されているが、親王の髪は長く痩身でなかなかのスタイリストなのがいい。このように日本の皇室とブラジル―そして日系コロニア―には強い絆があるのだが、ひとつだけ気掛かりがある。
 皇太子妃の雅子さまのご体調がすぐれないのである。「適応障害」という心のご病気なのだが、この治療は非常に難しく、回復には時間も必要なものらしい。1昨年は静養のためオランダに向かわれ、久方ぶりに「笑顔」を見せられたり、お元気な頃の清清しさを取り戻したのだが、まだまだ全治には遠いのが現実のようである。このため公務も欠席することが多いし、マスコミからの批判も手厳しいものがある。週刊誌などの記事には、ちょっと読むに堪えないようなものもあるけれども、ここはゆっくりと静養を第一にして健康になってほしい。それでも最近はかなりよくなっているようだし、少しずつながら回復に向かっておられるのは喜ばしい。とはいっても、まだ皇太子殿下の外国訪問のお伴までは難しいのではないか。昨年7月の皇太子モンゴル訪問も、雅子妃殿下の体調が万全でないためにご一緒できなかったし、あるいはブラジルも皇太子さまだけになる可能性が極めて高い。
 私たちとしては、皇太子さまと雅子妃殿下がお揃いで移民の国ブラジルにお出で願いたいと祈っています。雅子さまは、外交官の家庭に生まれ欧米での生活が長く、国際的な暮らしをなされた方であり、多民族国家であるブラジルを目にすることは将来的にも大きなプラスになると信じて疑いません。もし―ご病気が快方に向かうようでしたら、ぜひ移民の大国の「旅」を楽しみ、コロニアを励ます言葉を掛けてもらいたい。
 今の皇室は愛子さまもお元気だし、秋篠宮ご夫妻の悠仁さまも満1歳のご誕生日を迎え赤ちゃんから離乳食へとすくすくとお育ちになっておられる。その一方では皇太子さまのポリープ切除や雅子さまの健康的な問題もあるが、こんな負の部分を乗り越えて明るく楽しい皇室像を国民に見せて下さい。
 笠戸丸から100年。あの移民船でサントスに着いた日本移民781人を礎にして育った日系コロニアは今や150万人になり、ブラジルの国民としてこの国の発展に尽力しています。皇太子殿下も、この力を汲み取って下さり、雅子さまの全快と天皇・皇后両陛下を始め皇族の皆様方のご健康に資して戴ければと存じます。そして私たち移民と2世から6世にいたる日系社会は皇太子殿下のご来伯を歓迎し、心からの喜びを表し、これからも日伯の架け橋となって参りたいと存じます。    (遯)

樹海

 私たち移民にとって今年の元旦は格別の意味を持つ。笠戸丸がサントスに着いて百年目の正月なのである。洋装の移民781人が上陸する風景を称賛する新聞もあったし、批判的な記事も少なくない。モジアナ線のヅモンやグァタパラなどに配耕された笠戸丸移民らが、どのような「御節料理」を楽しんだのかは、残念だけれども、詳らかにしない▼先輩移民によると、初期移民は日々の食べ物に困惑し参ったそうだ。恐らく、日本移民らも、正月の料理とは遠く屠蘇もない粗末な物を口に運んだのではないか。それでも、昭和の初期に移民船でブラジルに渡ったお婆ちゃんは「少しお金が溜まると、お正月には日本風のお節を作るのね―。それで家族が大喜びよ」と楽しく笑いながら話して呉れた。こんな移民たちの艱難辛苦が日系社会の繁栄に繋がる▼「移民百周年」というのは、こんな移民の歴史を語り、未来に繋げるものでありたい。祭典委員会は二千万レアルの予算を組み、「文化週間」やサンボードロモでは千人の太鼓と日本の民謡と踊りなどを軸にした「祭り」を繰り広げる。まだ確定はしていないようだが、江戸火消しの伝統を今に伝える「木遣」の粋と意気を是非とも耳にしたい。皇太子殿下をお迎えしての式典もだし、大変な賑わいになるだろう。が、70年祭でパカエンブー球場に集まった8万人の勢いはない。サンボードロモの収容人員は3万人に過ぎないし、かっての移民の力はもはや消えてしまったのはいささか寂しい▼式典開催の資金も必ずしも順調ではないらしく、本番はこれからだし、移民一世らの盛り上がりがないのも気になる。「百年史」の出版やシンポの開催など文化的な動きにも大いなる期待を寄せたい。 (遯)

半世紀で8回も皇室のご訪問=ご来伯の歴史を振り返る=50周年の三笠宮ご夫妻から=深まる日系社会との絆

 皇太子殿下がご来伯される――。宮内庁は昨年十月十六日、六月のブラジル日本移民百周年式典にご臨席されるために、皇太子殿下がブラジルを公式訪問することを発表した。コロニア、ブラジルが心待ちにしていた、式典への皇族参加の決定。皇太子殿下のご来伯は一九八二年に続いて二回目となり、現時点ではご訪問予定地、期間などは未定だ。五八年の日本移民五十周年祭に皇室から初めて三笠宮ご夫妻を迎えてから、今年、皇太子さまをお迎えするまでの五十年間、コロニアは八回にわたり皇族を迎えてきた。これまでの皇族来伯の歴史を振り返りたい。
 一九五八年六月十一日、三笠宮ご夫妻がリオのガレオン空港にご到着された。約二千人の日系人が迎える中、日本の皇族が初めてブラジルの土を踏んだ瞬間だった――。それ以後、五十年間に八回の皇族をお迎えしてきた。六七年、七八年と今上天皇皇后両陛下が、八〇年代には現皇太子殿下(八二年)、常陸宮ご夫妻(八六年)、秋篠宮殿下(当時・礼宮、八八年)が来伯された。九〇年代には紀宮内親王(九五年)、そして、九七年には天皇皇后両陛下が三度目のご訪伯をされている(表参照)。
 コロニアでは、その度に各地で歓迎委員会を立ち上げ、式典の準備を練り、万全を期して盛大に皇族をお迎えするよう努めてきた。
 五八年、初めて皇族をお迎えした三笠宮ご夫妻のときには、コンゴーニャス空港で二万五千人、イビラプエラでの五十周年祭式典で二万人の日系人が参集。六七年の今上天皇皇后両陛下(当時皇太子ご夫妻)のときには、「空港からオットン・パレセホテルまでの十三キロの沿道に約三十万人の人垣のうず(パウリスタ新聞抜粋)」ができたという。歓迎式典では、パカエンブー競技場が八万人の日系人で埋め尽くされたのだから、当時のコロニアの沸き立ち様がうかがえる。七八年の七十周年祭でも、同競技場に八万人が集まった。
 各皇族方の一言、一挙手一投足がコロニアの耳目を集め、そのお心遣い、触れあいの時間は、今でも人々の記憶に残っているものが多い。
 ブラジルの自然にご関心を持たれていた今上天皇は六七年、一回目のご来伯中にお忍びで三時間におよぶ、アマゾン源流付近の散策にご出発。パウリスタ新聞の記者が単独で追跡し、数日後から「暁の脱走」との大見出しでコロニアをにぎわした。
 また、心優しい美智子皇后は、六七年にサンタ・カーザ病院で闘病への励ましのお言葉をかけられた芹口マリリ百合子さん(当時10歳)と、十一年後、七八年のご来伯の際に再会。芹口さんの成長ぶりを、涙を浮かべられてお喜びになった。
 さらに九七年、両陛下は三度目のご来伯をされ、小雨が降る中をイビラプエラ公園内の開拓先没者慰霊碑に献花。陛下が差しかけられた傘を断られると、少しうしろに立たれていた皇后さまが陛下の背中に付いた雨粒をそっと手で払っておられた。このお二人の厳かなまでに繊細なお心遣い、お姿に心動かされた人は少なくなかったという。
 皇太子殿下にとって、八二年の初めてのご来伯(当時、浩宮さま)が、実は最初の公式外国訪問だった。十二日間滞在の滞在中に、十一都市をご訪問するという厳しい日程。パラナの歓迎式典で日系女性にブラジル式挨拶のベイジョでもって迎えられ、「何時でも落ち着いて対応される殿下がなんとも気恥ずかしそうなお顔を見せられた(関係者証言)」ことは、今も語り種になっている。
 皇太子殿下の歓迎にと、東洋街に一千人の日系人が押しかけた。大阪橋には鯉のぼりがはためき、ガルボン・ブエノ街に「ようこそ浩宮様」の横断幕が掲げられて、一層雰囲気を盛り立てていた。
 今年六月、コロニアは再び皇族をお迎えする。皇太子殿下のご来伯は、コロニアに喜びと感激、感動を再度もたらすことだろう。

皇后さまとお忍びで買い物?!=身近に接した関係者の逸話

 コロニアで長年にわたり日系団体の役員などをしてきた人々はもちろん、市井の移民や日系子孫にも、これまでの八回にわたる皇族のご来伯を、喜びと懐かしさをもって思い起こす人は多い。
 九〇年代に文協会長として天皇皇后両陛下、清子内親王をお迎えした山内淳さんは、「ブラジルの日系社会、またブラジルという国をよく見ていかれたらと思います」と、六月の皇太子さまご来伯に期待のメッセージを寄せる。
 移民七十周年の際には「役員の端くれとして見ていただけだった」が、九七年、三度目に来伯されたときには歓迎委員会委員長として、サンパウロご滞在中の案内役を務めた。
 「皇后さまは、グアルーリョス空港で雨の中出迎えをした人をお気遣いされて、翌朝、まず一番に『皆が待っていてくれたことが嬉しかった』と言われました。『風邪をひかれなかったでしょうか』とお尋ねになられました」と振り返る。
 また、六〇年代後半には、留学中だった三笠宮寛仁親王(三笠宮の第一男子)が非公式にご訪問されたことを明かし、「ぜひ楽しんでいただこうと、文協の若手が計画して〃夜の世界〃へご案内を致しましてね。後からお付きの人に叱られたということもありますよ」と懐かしそうに記憶をたどった。
 通訳として歴代大統領とともに、日本でも両陛下に接見した経験のある二宮正人さんは「両陛下の日系人への気配りは本当にすばらしい」と賞賛する。「ご来伯用にと防弾車を新調したけれど、窓を開けて沿道の人に手を振られるのでドキドキしたよ」とにが笑い。
 二宮さんは「清子内親王は聡明でいい方。リオに着いた時にはご自身で挨拶文を手直しなされるなど、しっかりした方だと思った」という。
 さらに、一九五八年から九七年まで、皇族のご来伯八回全てでご来訪者と接見したというつわものもいる。西礼三さん(二世)だ。日系人で初めてサンパウロ州軍警の大佐に昇進し、八八年までは皇族がご来伯されれば、必ず「付きっきり武官」として任務を果たしてきた。
 「朝から夜お部屋に入られるまでずっと一緒です。寝るときも隣の部屋ですから」と西さん。「皇族の方はすごく飾らずシンプルで、(西さんの)下手な日本語を聞き、ゆっくりと説明をしながら話す」と目を輝かせる。
 西さんは七八年、当時もっとも高級だったショッピングセンター「バロン・デ・イタペチニンガ」に、皇后さまと二人、お忍びで買い物に出かけたとか。「ものすごいお美しい方だから気づかれないように慎重に。カバンと手袋を買われたかな」。
 八二年に来伯された浩宮さまについては「まだ若かったけどきちっとしていた。テニスのカンポでは二十歳の青年っぽく元気な顔だったな」と微笑みながら回顧していた。