ニッケイ新聞 2008年1月1日付け
一世紀の節目にあたり、ブラジル大地に最も長く住む日系人は、笠戸丸移民を両親に持つ二世最高齢の具志堅金城カルメさん(98歳)だ。続いて、一九一二年に第三回移民船・厳島丸で渡伯して九十五年間を過ごす最古移民の大原綾子さん(101歳)。この百年間に着々と世代を重ねた笠戸丸移民子孫は、ついに大西エンゾ裕太くん(3歳)ら六世世代に至った。この三人に焦点をあて、百年の歳月をたどってみた。
サンパウロ州ボツカツ市に暮らす具志堅金城カルメさんは九十八歳。ニッケイ新聞による現時点の調査で、コロニア最高齢の二世だ。両親は沖縄県島尻郡南風原出身の笠戸丸移民。〇七年十一月に九十八歳の誕生日を迎え、普段は離れて暮らす子どもや孫も集って、盛大なお祝い会が開かれた。百歳を前に今なおかくしゃくとしたカルメさん。現在は三人の子どもと一緒に穏やかな日々を過ごしている。そんなカルメさんにこれまでの人生を振り返ってもらうと同時に、現在の暮らし振りなどを聞いてみた。
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取材に訪れた昨年十一月初旬、春先の心地よい風が吹きぬける居間のソファに、カルメさんはにこやかに座っていた。壁には富士山の朝焼けの写真が飾られ、戸棚には日本の郷土品がきれいに飾られていた。
来年の移民百周年にあわせて皇太子殿下が来伯されることを伝えると、かしこまった表情で「皆さんのおかげです。私も心からお迎えするつもりです」と沖縄方言を交えて日本語で丁寧に話した。
カルメさんが現時点の調査でコロニア最高齢二世である旨を伝えると、「フクラシクウムトヤビン(誇らしく思っています)」と流暢な沖縄方言で答えた。
一九〇九年十一月十七日。カルメさんはサンパウロ州サントス市で生まれた。両親は入耕先のフロレスタ耕地(現・サンパウロ州イトゥ市)を離れた後、サントス港の荷役夫として働いた。カルメさんはその荷置き場で生まれたという。
両親は沖縄県南部に位置する島尻郡南風原町津嘉山の出身。父親の金城大三郎さんは二十五歳、母親のカメサさんは十九歳で渡伯した。カルメさんは両親から聞かされた故郷「ツカザン」の名を今でも覚えている。
荷役夫をした大三郎さんは慣れない仕事のせいか、カルメさんが物心つく前に亡くなってしまう(死亡年月日は不明)。そのためかカルメさんには父親の記憶がほとんど残っていない。ただ「がっしりとした父の背中姿」はよく覚えている。
大黒柱を失った母親のカメサさんはその後、同じく沖縄移民の赤嶺コウエイさんと再婚した。二人の子どもを授かったが、その母親もカルメさんが十三歳のときに破傷風を患い一九二二年、三十三歳の若さで他界。継父のコウエイさんもその翌年にこの世を去った。
「パパイとママイの骨は洗骨して沖縄に送り返した」とカルメさん。話ではその遺骨は今でも、故郷・津嘉山にあるという。
その後カルメさんは同市内の水路郡の一角にある親戚の家で育てられ、二六年に沖縄移民の電気工だった具志堅清正さんと〃恋愛結婚〃した。
「主人は毎日私の家の前を通りすぎていたの。それでいつだったかしら。私から彼に『あなたのこと好きよ』ってささやいて交際が始まったんだと思います」。
これを聞いて、見合い結婚だったと信じていたカルメさんの子どもらは、みな驚いた様子。カルメさんも恥ずかしそうに赤めいた顔を手で隠して話した。
結婚式は親戚・知人らと慎ましく開いた。「ケーキはなかったけれど、サーダーアンダギー、魚や芋の天ぷらがありました」。港町サントスらしく、ボラの刺身もふるまわれた、と記憶する。
結婚三年後に長女サエコさん(故人)を授かり、三〇年から一家はボツカツ市に移り住んだ。その一年後に同市郊外のヴィトリアーナ地区に二十四アルケールの土地と家を購入して農業をはじめた。
「毎日とにかく畑仕事でした。米やフェイジョン、ピメンタ、トマトなどフェイラで売れそうなものは何でもつくりましたよ」。
同地でさらに四男、六女の子宝に恵まれた。当時家族の間では沖縄方言が会話の中心だった。そのため次男のコウトクさんは、「ポルトゲースが学校に通うまでわからなくてね。ママイから頼まれて町に鶏肉を買いに行くにも言葉がわからない。だからお店の前で鶏の物マネをしたんですよ」。
同地は当時「日本人の家族は十ほどしかなかった」。戦時下では、沖縄方言も日本語も話せなくなった。カルメさんも日本の敗戦を知ったとき「主人は一世でしたから、とてもがっかりしていました。私も知らない日本のことでしたけど残念に思いました」と思い出す。
コウトクさんによれば、カルメさんは子どもたちにしっかりと勉強すること、いつも正直でいることをよく言って聞かせた。「ママイは滅多に怒ることもなかった」。カルメさんの性格を子ども達は〃温和〃という。
カルメさん夫婦は「苦しい生活」が続いたが、六人の子を大学に送り出した。USP法学科を卒業し、長年弁護士として活躍した長男セイユウさんをはじめ、中学校教師の三男コウイチさん(故)、社会福祉士の三女ツルコさんと五女タケコさん、歯科医の六女ミヤコさん、生物学者の末娘チエコさんと子孫の活躍は多方面に渡る。
「自分の子どもや孫たちがブラジルの社会でそれぞれ夢を叶えてくれることが何よりも嬉しい」―。カルメさんに長生きの秘訣を尋ねると、こう何度も話した。その背景には、子ども達の活躍があるようだ。
夫の清正さんは六〇年に病気で亡くなった。結婚記念日の日付と〃SEISYO〃の名を刻んだ結婚指輪は大事な形見だ。「ママイはパパイから何もお金を残してもらえなかった。だから私たちのために一人で一生懸命働いてくれた」。末娘のチエコさんはそう称えた。
カルメさんは「沖縄で生まれても良かったけど、ここで生まれたのは自分の宿命。だからそれでいいと思っています」と最後に一言。今後の人生を「自分と家族の健康を一番に祈っています」と微笑んだ。
《編集部注》
コロニア最高齢二世と思われるカルメさんの苗字、金城はブラジルでは「カナグスケ」と登録されている。本来の「カナグスク」の綴りを間違えて登録されたようで、父・大三郎さんの名はブラジルでは「ダイタロウ」、母・カメサさんの名も「カミ」になっている。今回の取材にあたり沖縄系笠戸丸移民の足跡を調査している赤嶺礎乃子さんが同行し、多くの協力を得た。
「何でも食べるのが秘訣」=琉球民謡紅白歌合戦楽しみ
「好き嫌いなく何でも食べること」――。健康の秘訣を尋ねると、カルメさんはこう和やかに笑った。
カルメさんと同居する末娘のチエコさんによれば、カルメさんは沖縄・日本、ブラジル料理の何でも大丈夫。しかし、脂分の多い肉を控えるように気をつけている。
取材後のカフェの時間では、次男のコウトクさんがつくったチーズ入りのパステルを美味しそうにほうばり、穏やかな表情で紅茶を口にしていた。ここでの家族の会話はポルトガル語だったが、時には沖縄方言を混ぜて日本語を話すこともある。
歩行器具をつかって歩く生活とはいえ、身の回りの世話はいまでも全て自分で行っている。楽しみはNHKを観ること。歌や花、料理関係がお気に入りで、好きな番組が放映されるときには午前零時近くまで起きていることも。「あまり早く寝ると、夜中に目を覚ましてしまうんです」。
沖縄民謡が大好きで、最近はコウトクさんが日本から取り寄せた琉球民謡紅白歌合戦のDVD鑑賞が何よりの楽しみという。
「若いときは仕事が忙しくて趣味の時間もほとんどなかった」とカルメさん。沖縄舞踊は踊れますかとの質問に「カチャーシくらいなら」と笑顔を浮かべる。
コウトクさんらはウチナーンチュ大会などで沖縄を訪れた経験があるが、カルメさんは訪日したことがない。「私は日本のことをテレビや子ども達の話から聞いています。祖国の繁栄を今でもとても嬉しく思っています」。
日課は自宅にある亡き夫の仏壇に毎朝手をあわせること。「パパイもママイもブラジルで、夢が叶わないまま早くに亡くなってかわいそうだった。でも今でも天国から私たちを見守っていてくれていると思います」。
孫十一人、ひ孫は十四人。家族の幸せが私の幸せと何度も口にしたカルメさん。「メンソーリヨー(またいらっしゃい)」。そう笑顔でベージョして記者の帰りを見送ってくれた。