ニッケイ新聞 2008年1月1日付け
「明日死んでもかまいません。だって別に思い残すこともないし、悪いことをする子もおらんしね」――。そう落ち着いて話すのは〃最古の日本移民〃として、ニッケイ新聞が〇七年の新年号で紹介した大原綾子さん(101歳・サンパウロ市アクリマソン在住)。最後の笠戸丸移民、中川トミさんが一昨年十月に亡くなった後、第二回移民船・旅順丸(一九一〇年)の生存者が確認できていないため、一九一二年の第三回移民船・厳島丸で渡伯した大原さんは、ブラジルに最も長く暮らしている一世でもある。昨年九月の誕生日会後、大動脈から出血して二カ月ほど入院するも、十一月末に退院。体力こそ以前より落ちたが、サンパウロ市内の姪の家で開かれた恒例の忘年会にも出席、元気な姿を家族に見せて驚かせた。そんな綾子さんに最近の暮らし振りや現在の想いを尋ねた。
「まぁ何でも食べることでしょうか。でもそんなのないですよ」。長生きの秘訣について、そう笑う綾子さん。最古の日本移民であることについてコメントを求めても、「ノン・セイ(知らない)」とあっさり聞きながす。
大原ファミリーは四世代に渡る。子ども五人、孫十人、曾孫七人。「楽しみは孫たちとあれこれ話をすること」。昨年九月の誕生日会では、実に二十二人の親類が大集合。子、孫らから次々にパラベンスと声をかけられ、本人もおおいに喜んだ。
しかしその後、体調が悪化して入院。左肺の下方部に水がたまり、呼吸困難になった。息子の毅さんによれば、そんな状況にも「まだあの世に行かないから心配せんでいい」と笑い飛ばしたという。「こうしたユーモアを言うのが母の特徴なんです」。
担当の医者は家族に最期を覚悟するような口調だったが、毎日見舞いにくる家族の想いもあってか、綾子さんは宣言通りに見事回復、退院までこぎつけた。
トミさんと同じ熊本県で生まれた綾子さん。五歳のとき、父嘉一さん、母ミエさん、妹文子さんとともに一九一二年の第三回移民船厳島丸で移住した。
綾子さん一家は笠戸丸移民が入植したグァタパラ耕地からサンパウロ市を経て、サンパウロ州リンス市近郊のカフェザールに入った。綾子さんが十二歳のときだった。綾子さんは朝五時に起きて家族の朝食をつくり、弁当を農園に届け、農作業も手伝った。
二十五歳になった綾子さんは裁縫の稽古のため出聖。リベルダーデにあった寄宿舎のサンパウロ州義塾には、移住地で懇意にしていた同年の画家、半田知雄さんがいた。
「(半田さんは)花の種をくれたり親切なんだけど、靴下が穴だらけなの。困っているのかなと思って靴下買って置いてきたりしてね」――。昨年の取材でそう話した綾子さん。三〇年代には、サンパウロを二人でよく歩いたという。
綾子さんは「半田さんとは兄弟のようなお付き合いをした」と思い返す。毅さんによれば、綾子さんは晩年、半田さんに手製の人形をプレゼントした。後日アチバイア市の半田さんの自宅を訪れると、その人形と花瓶をいっしょに描いた絵がお返しにプレゼントされた。
「でも母は何故か『そんなのいらないわよ』と怒って受け取らなかったんですよ。自分があげた人形を絵にするのがあまりにも意外で、気に食わなかったんでしょうね」。その絵は毅さんがこっそりと譲り受けたという。
子どもの頃からの趣味の一つは人形作り。今でも自宅に作りかけの人形がたくさんあるそうで、「箱の中で人形が大騒ぎしているよ。早く目をつけてあげなきゃね」とユーモアたっぷりに大笑いした。
そんな綾子さんはニュースも大好き。「NHKやブラジルのテレビで大きな事件を知った時に、子ども達にわざわざ電話で報告してきた」(毅さん)ほどで、目が悪くなるまでは、邦字紙を読むのが習慣だった。
来年の百周年について尋ねると、綾子さんは笠戸丸移民の一人に、仲の良い女性がサンパウロ州の田舎にいたと話した。「彼女ももっと生きていたらよかったんだけど」と残念そう。「でも百周年はうれしい」と笑顔を浮かべた。
「母は日系社会百年の歴史をそのまま見つめてきた人。社会的に立派な人になったわけでないけど、一人の移民として豊かな人生を辿ったと思う」と毅さん。「昔は子どもが家に帰ってくるまで必ず起きている母親でね。悪いことをしたときはきつく叱られましたけど、穏やかで優しかったですよ」。
最近の綾子さんは足腰も悪く、ベランダにつながる二階の自室でゆっくりと一日を過ごしている。取材の最後に写真を一枚、とお願いすると、すくっと椅子から立ち上がってポーズを決めてくれた綾子さん。毅さんも「これは珍しいですよ」と、百歳を越えなお健在の母の姿を喜んだ。