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「コチアは生きていた」=30年ぶりのセラード「赤木報告」=(10 終)=真の農業者は寡黙=日系の農業従事「終わった」と言うまい=コチアの精鋭の勝利

ニッケイ新聞 2007年12月29日付け

 いま、日系社会は老齢化して、一線を退いた一世と、出稼ぎの話だけが目立って、政界、実業界、その他の分野でも、他の国の民族ほど目立った存在がなく、何か中心を失った寂寞さを感じる人は多いと思う。なぜ日系社会の誇りで有った大組織が、短期間に一斉に崩壊してしまったのか。いま、日系社会の中心となるべきサンパウロの文協は、強い吸引力を持たないまま、さまよい、模索しているように思えてならない。
 この沈滞と対照的に、セラード地帯の日系人は、コチアが意気に燃えていた時代のたくましい生産を、いまも引継ぎ、さらに頼もしく、更にスマートに、悠々と生きている。独力で、セラード開発の手本を作った小笠原一二三理事の壮大な計画を元に、これを生かそうと、コチアが造成したサン・ゴタルド入植地は、コチアが選んだ若い精鋭の農業者だけを先陣として送り込み、見事成功した。
 ブラジルのどこに、作物の植付けを人工衛星操作トラクターで実施するような着想を持った農業者がいるだろうか。生産を株式会社化して、究極の合理化を求めるアイデアを実施に移している生産地が、ブラジルにあるだろうか。彼らは、純粋の農業者であり、小さい頃から一世の父親と畑に出て、汗を知っている人間達である。セラード開発第一陣としてコチアが選んだ農業の精鋭たちは、農業生産だけでなく、将来のブラジル農業が進むべき手本、進路を、いまも全国に向けて発信し続けている。
 三十年昔に第一陣として、荒野に挑んだ当時の青年達は、いま熟年期に達して、自分の越し方をどんな気持ちで振り返っているだろうか。コチアが作った舞台で、若い情熱を、命の限り燃やして、常にブラジルの農業の先端を走りつづけ、将来の指針まで示していることに、強い満足感を持っているに違いない。未知に挑戦して、国家的期待を一身に背負い、そして、ブラジルに手本を示し続けている彼らに私達は拍手を贈っていい。
 本当の農業者とは、寡黙であり、自分の過去を美化したり、宣伝することを知らない。だから、ミナスの一角にコチアの精神がいまも見事に開花していることは、日系社会に余り知られていない。あるいは、過去のセラードを知らない人は、昔からこの地帯はミナス有数の豊かな穀倉地帯だったと思っているかも知れない。昔の荒涼とした面影は、もう何処にもない。
 典型的な昔のセラードが残っているところを見たいと、サン・ゴタルド文化体育慈善協会の佐久間正人会長に頼んだら、一ヵ所だけ探し出してくれた。そこはブラジル人の所有で、土地は持っているが、開発方法も、資金運用手段も、何も知らず、昔の不毛のまま、ただ土地を所有しているというだけである。中には、日系人の真似をして、作物を植えた後もあるが、収穫はなく、荒れ果てている。
 ブラジル人の失敗と、日系農業者の見事さが、隣あわせで展示されたようになっており、日系人の技術は口で説明する必要はない。
 移住百周年を迎えるに当たり、日系人の農業従事時代は過去のものになったなどと考えるのは間違っている。熟年になった昔のコチアの精鋭たちは、若かったときの燃える開発情熱を、いまは沈着な思考に代えてはいるが、誰も思いつかないようなアイデアを、常に考えて、今も時代の最先端を進んでいる。
 無口で上手がいえない。しかし、ブラジルと国際市場のはるか将来まで考えて、常に仲間同士で協議しながら、革新的手法を導入している彼らに、心から拍手を贈り、今後も見守ってほしいと、日系社会にお願いするものである。(おわり)