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「コチアは生きていた」=30年ぶりのセラード「赤木報告」=(7)=産組が開拓に動く前に=長男を〃先遣〃した小笠原さん=日系人がすべてを好転させた

ニッケイ新聞 2007年12月22日付け

 現在では、ブラジル人も、商社も、セラードのコーヒーは、高級品という認識を持っている。いまでこそ、セラードはコーヒーの花が咲き、実が充実する期間中、雨が降り、収穫期は乾期に入るから、高級品ができると知っているが、このセラード・コーヒーのアイデアと基礎を作ったのは、当時北パラナのコチア産組リーダーあった小笠原一二三(ひふみ)さんだった。
 ブラジルが国際市場相手に発展していくには、パラナ州の農耕面積は小さ過ぎる。次の世代のために新たな発展地帯を作る必要があると、小笠原さんが考えを固めたのは、今から四十年以上も前の一九六五年のことだ。
 新たな発展の地を求めて、全国の有望地を調べた小笠原さんは、ミナス州モンテ・カルメロの町で、古老の話をきき、土地をみて、セラードに可能性を直感したと、筆者に話してくれた。標高一千メートルの高原には、北パラナが苦しんでいるコーヒーのさび病がないことは、試験の結果で分っている。セラードは平坦で、将来機械化が容易だ。地価は安く、労賃も安い、土地は痩せていても、土の組成は良好だし、土作りには自信がある。
 老練な農業者、小笠原さんは二十年、三十年後の遠い将来まで見通して、セラードを第二の発展地帯に、と決意した。しかし、コチアに帰って信念を説いても、最初から賛同者はなかった。そこで、自費で実証しようと決め、長男たかしに「一人で道を切り開く自信があるか」と尋ねた。国際農友会の農業実習生として、砂漠にまで農園を作っている米国のカリフォルニアを見てきたたかしは「やれる」と答えた。父一二三さんに似て、寡黙なたかしも「やれる」というたった三文字の言葉で、父の夢に向って、自分が挑戦する決意を表明したものである。当時、たかしは三十六歳だった。
 一九七一年に交わされた小笠原親子の、この静かな、短い会話が、ブラジルのセラード全体の運命を変えることになった。たかしは、即時、モンテ・カルメロに五百ヘクタールの土地を購入して、単身開発に着手した。ブルドーザーで木を押し倒し、根を抜いたあとは、強力な円盤プラウをかけると、木の根が一面に出てくる。労働者を動員して木の根を拾わせて、耕地に生まれ変らせた。
 たかしは、いきなりコーヒーを三十五万本植付け、別に三百万本のコーヒー苗を作った。苗は後続隊に譲る目的であった。たかしのバックには、北パラナで強大な農業地盤を持つ小笠原一族が控えており、たかしの成果を見守っていた。コーヒーの成長具合を見ていたパラナ勢が、たかしの結果をみて、続々と周辺に土地を購入して、青年を送り込み、たかしはリーダー的立場に立たされた。
 当時の日系農業社会では、どこも、次、三男対策や、新たな発展地を模索していたために、北パラナの動向はサンパウロでも注目された。
 「経験豊かで、慎重な北パラナの連中が、いっせいに動いているところを見ると、よほど有望に違いない」という噂が広がって、たかしの開拓地に視察者が押しかけた。しかし、無口なたかしは、周囲の動きには目もくれず、ただ作物だけに熱中した。三年でコーヒーは六十万本植付けて、ブラジルで当時一~二を争うコーヒー大農家となり、一方、大豆、小麦、さては二十ヘクタールのトマトやピーマンの種子用栽培まで、種子会社から頼まれてやった。だから種子生産者としても有名になった。         (続く)



「コチアは生きていた」=30年ぶりのセラード「赤木報告」(1)=小笠原一二三さんの先見の明=驚嘆させられる変貌

「コチアは生きていた」=30年ぶりのセラード「赤木報告」(2)=100年前の農地再生され、今は穀倉地帯、なお余裕

「コチアは生きていた」=30年ぶりのセラード「赤木報告」(3)=人工衛星コントロール方式=究極まで生産性を追求=人工衛星操作でトラクターを運転

「コチアは生きていた」=30年ぶりのセラード「赤木報告」(4)=30数家族で「生産株式会社」組織=資材、機械一括購入、労働力も〃共有〃=農家が作る生産株式会社

「コチアは生きていた」=30年ぶりのセラード「赤木報告」(5)=パルナイバ上流農畜産組合の建物=〃昔の泥臭さ〃が消えた=名前を変えたコチア組合

「コチアは生きていた」=30年ぶりのセラード「赤木報告」(6)=日本人は気が狂っている?=入植時、地元住民の見方=「開拓は失敗必至」