ニッケイ新聞 2007年10月9日付け
一九五七年に鹿児島県の頴娃町からパラグアイへと一家五人で移住した川畑家。ピラール・ド・スール市へ移り住んで四十五年、今年で移住五十周年を迎えたことを記念して、六日、同市の川畑幸一さん(57)宅で祝賀の催しが開かれた。両親の幸吉さんと智恵子さん(共に故人)は、同市のピラール・ド・スール文化体育協会建設などにも尽力、現在でも同市内の住民から慕われ、信頼される一家になっている。祝典には同市長、市議会議長のほか、同地文協、鹿児島県人会関係者など約四百人が出席。日本からも親戚が駆けつけ節目の年を祝った。
川畑さん一家は一九五七年八月二十日に「ぶらじる丸」で日本を出発し、同年十月十三日にサントス港に到着。そこからパラグアイのアマンバイに入植し、約一年八カ月間コーヒーの手入れを行った。
五九年にパラグアイからイビウーナへ一週間のトラック移動をして、同地の前田農場へ。この時、同郷の上芝原実夫(70)さんと一緒に日本から持ってきたリヤカーで収穫物を売り歩いたという。
三年後の六二年六月十二日に、ピラール・ド・スールへ移り、葡萄、林檎、柿などの栽培を行ってきた。周囲よりも先に農場にパソコンを持ち込むハイテク技術を駆使し、今では八十ヘクタールの農場を持っている。
午前十時の先祖法要開始前から会場にはすでに二百人ほどが集まっていた。渡辺博文南米浄土真宗本願寺(西本願寺)総長、松岡海心同開教使の二人がサンパウロ市から駆けつけ、法要を行った。
続いて幸一さんと姉の出理葉千鶴子さん(いでりは、60)、妹の菅原恵子さん(53)、相原みどりさん(49)、同郷の上芝原さんの五人で自宅内の日本庭園に建てられた記念碑を除幕。
記念碑には、母親の智恵子さんが常日頃口にしていた〃したろう〃という言葉が刻まれている。この言葉は、川畑家の出身地、頴娃町の言葉で「元気を出して頑張ろう」との意味がある。
続いて倉庫に移動して記念祝典。日伯両国歌に続いて、幸一さんは自身の移住の歴史を振り返り、「この半世紀は苦あれば苦ありの連続だったが、それを一つずつ乗り越えて今がある。これからも〃したろう〃精神で頑張りたい」と挨拶した。阿部勇吉同文協副会長、上芝原初美同文協婦人部部長、園田昭憲鹿児島県人会会長、ルイス・ヘンリキ同市市長、アンジェロ・パウロ同市議会議長、石窪富男さん(親戚)らも祝辞を述べた。
鏡開きの後、豊田一男同文協会長の音頭で乾杯。会食中には川畑家の歴史を振り返るDVDが上映され、日本語学校の生徒たちによる太鼓やYOSAKOIソーラン、カラオケなどが祝典を盛り上げた。最後には炭鉱節を大勢で踊り楽しい余韻を残したまま無事閉幕した。
七歳で移住した幸一さん。祝典後、「親の世代に苦しい時に助けたり、助けてもらったりしたので、その時の恩返しが少しできたかな」と笑みを浮かべながら話していた。