ニッケイ新聞 2007年9月27日付け
五十年前のパウリスタ新聞社会面を開くと、「コロニア空前の葬儀」との大見出しが躍っていた。二十五日午後一時三十五分に、ピニェイロス区のコチア産組本部で執務中に脳溢血で亡くなった下元健吉専務理事を報じた記事だ。同日午後二時頃から編集部には真偽を確かめる電話が殺到したとある▼翌二十六日の葬儀会場の内外には五百もの花輪が並べられ、本部に安置された棺桶には数千人もが引きも切らず参列したという。記事には「近郊の組合員はカミニョンに鈴なりになってピニェイロスに馳せ参じた」とも▼出棺に立ち会った当時の職員、武田久夫さんによれば「みんなで担ごうという話になり、六人が交代で棺桶を担いでサンパウロ墓地まで歩いて運んだ。せっかく迎えに来た霊柩車だったが、花輪だけをのせて行かせた」と懐かしそうに振り返る。カルデアル・アルコベルジ街を墓地まで二キロ、上り下りの続く坂道だ。「棺桶が立派だったから重かったですよ」▼四月には組合創立三十周年を盛大に挙行したばかりだった。その前年に渡伯した瀬尾正弘さん(コチア青年一次五回)は「あの広々したジャグワレー倉庫が農産品展で埋まったんですよ。五十メートルぐらいの幅のシュラスコやって、ボンボン火を焚いてました」とまるで昨日のことのように思い出す▼ところが日本の郷里では、下元はまったく知られていないという。知人を介して地元紙に「五十周年忌の機会に何らかの形で知らせてもらえないか」と依頼してみたが梨のつぶて…。百周年の機会に日系社会への関心をもう少し盛り上げたいという思いを新たにした。(深)