ニッケイ新聞 2007年9月22日付け
笠戸丸移民や旅順丸は西廻りでインド洋を渡ってケープターンに寄航しサントスに着いた。戦前の初期移民が東南アジアや南アフリカを経由したのはまだ「パナマ運河」がない為であり、移民船が太平洋航路を使うようになったのは、1914年にパナマ運河が完成してからである。戦後移民もオランダ汽船を除き大阪商船はアメリカから運河を通航しブラジルへ第一歩を踏み出した▼太平洋と大西洋を結ぶあの運河は80キロもありガツン湖などの水を使った閘門式を採用している。移民船の蚕だなベッドで荒波を渡った人たちは、今でも運河の閘門(ロック)で機関車に曳航されるときの情景をはっきりと記憶しているに違いない。ある種の感慨もあったし、ブラジルでは頑張るぞと心を引き締めた向きも多い。あの運河建設には、東京帝国大学工学部を卒業した日本人の技師がいた▼静岡出身の青山士氏である。東大を卒業した1903年に廣井教授の紹介で渡米し工事に加わったもので最初は測量の助手だったが、実力が認められ副技師長に昇進し大活躍している。後に帰国し内務省で治水工事を指揮し内務技監に出世するなど、あの運河は移民船を始め日本とは縁が深い▼それにしても、あの運河は長く渡りきるのには10時間ほど掛かった。そのパナマ運河を拡張するための起工式が先頃あった。第2運河であり、現在の水門と並行する形で2014年には開通するそうだし、完成後の年間船舶通航量は現在の約2倍の6億トンになるという。クレップスに始まる運河が竣工してから100年目というのがいい。 (遯)