ニッケイ新聞 2007年9月19日付け
「どっちが先に投げたかが日本柔道の基本。今の世界の基準では、どちらが先に落ちたかが判断基準になっている」――。リオの世界柔道選手権大会で、日本柔道団の山下泰裕氏(ロサンゼルス五輪金)に、予選二回戦で敗退した日本代表の鈴木桂治選手について尋ねると、残念そうにこう口にした。今回、記者が日本やブラジルの柔道関係者を取材するなかで、世界柔道の流れと伝統的な日本柔道のありかたには大きな認識上の溝があることがわかった。〃日本のお家芸〃、柔道は今後どうなるのか―。柔道関係者が語ったコメントを中心にまとめたい。(池田泰久記者)。
「鈴木の試合だったら日本でやれば審判全員が鈴木の勝ちを認めたはず」(山下氏)。同選手は大会初日の二回戦、リトアニアの選手に場外際で大外刈りをかけたところ、相手に背をつけさせながらも土壇場で返し技にあい、ビデオ判定の末、一本負けを屈した。鈴木選手は再試合を求めるかのように納得のいかない表情で、しばらく畳に立ち尽くした。
山下氏をはじめ日本代表の斉藤仁監督は、「先に技をしかけたほうにポイントが入るのが日本の基準」と説明する。日系の柔道関係者も「どうみてもあれは鈴木選手が勝っていた。審判の質が下がっているのではないか」と語気を強める。
ブラジル講道館有段者会の岡野脩平氏は「欧州勢の柔道は〃柔道着を着たレスリング〃のようだ」と形容する。「足をとって倒してちょっと点を取ったらあとは逃げ回る、技をしかけないで最後に返し技を狙うだけの選手が多い。これは卑怯な柔道だ」。
山下氏や岡野氏によれば、本来の柔道とは「正々堂々と相手と組み、相手を崩して正しい投げをし、相手に技をほどこしたほうに効果がある」。その姿勢こそが「柔道の本質である人間性の修養につながる」という。しかし実際の世界の流れはちがっており、「各国の企業や政治の影響もあって、勝ちだけにこだわる風潮にある」という。
ブラジル男子柔道監督の篠原準一監督も「ヨーロッパの勝つだけの柔道は〃きれいな柔道〃ではない。でもメダルを目指すなら、ブラジル柔道もヨーロッパのスタイルを研究しないと勝てなくなる」と複雑な表情を浮かべる。
このような世界的な傾向は、岡野氏自身が選手として活躍した四十年前まえからあったという。「柔道そのものが百九十五カ国に広まった。サンボ(ロシアの国技)やレスリングなど、各国の色んな思想が入ってくるのは当然だが、原点を忘れている気がする」。
山下氏は大会直前におこなわれた世界柔道連盟(IJF)の理事選挙に大差で落選、同連盟に日本人理事はゼロになった。「伝統的な柔道を主張する日本の影響力をおさえたいのでは」。そんな関係者の憶測がとびかうように、「柔道は日本だけのものではない」といった世界的な意向も、今回の審判判定などの背景にあるかもしれない。
リオ市内で十七日に日系団体と開かれた日本選手団の懇親昼食会で、鈴木選手は、「審判がどうこうではない。誰が見ても自分が勝ったという柔道をしていれば問題はなかった。来年の北京オリンピックには今まで以上の〃何か〃が必要になる」と力強くのべた。
たしかに、今回フジテレビの解説者を務めた篠原信一氏(シドニー五輪銀)は「桂治がしっかりと技を決めきれなかったのがダメ」と話していた。とはいえ「でもこんな柔道は柔道じゃないだろ」と残念そうに語ったのも事実だ。
山下氏は大会開催中に、「世界の柔道の判断基準をしっかり把握していなかったのも悪いけど」と前置きしたうえで、「(観客には)やっぱり〃本当の柔道〃を見てほしい」と訴えた。
今大会では谷亮子選手の金など、日本は参加国中で最多となる九つのメダルを獲得。ブラジルも開催国の利をいかして三つの金を獲った。苦戦しながらも欧州勢をおさえて、伝統的な柔道を基本にする両国が維持をみせた。本番ともいえる北京オリンピックを来年に控え、今大会を通じて今後の柔道のありかたそのものが問われる〃大きな分岐点〃にたったようにも感じた。