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視覚障害者のスポーツの世界=世界選手権、日本選手にきく(上)=体が続く限り柔道を=「人生そのものだから」

ニッケイ新聞 2007年9月14日付け

 視覚障害者のスポーツ大会「第三回IBSA世界選手権大会」が、七月三十一日から八月六日まで、サンパウロ市とサンカエターノ市で開催された。競技は、陸上競技、柔道、サッカーなど七種目。日本からはおよそ八十人の選手団が来伯、各国選手と力を技を競った。柔道とサッカーの健闘振りを振り返った。
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 柔道は、八月一日から四日までの四日間、UNIBAN大学の体育館で行なわれた。
 熱戦を繰り広げた日本代表。試合の前半は優位に進めていく選手が目立っていた。一本こそとることはできなかったが、ほとんどの選手が先にポイントを獲得していく。残り時間も少なく勝ちを意識し気を抜いた瞬間、相手に一本を取られる。油断をしていたわけではないが、思うような結果を残すことができなかった。
 視覚障害者の柔道は、「組んだところから始まる」「両手が離れた時に試合を止める」「基本的に場外反則はとらない(弱視の人が全盲の人と対戦するさいに故意に場外を使うと反則)」の三つが健常者の柔道とは大きく違う。
 第一回のパラリンピックから監督をしている柿谷清さんは「今回からコーチやスタッフが増えたので大助かり」と笑顔を浮かべていた。
 大会で柔道日本代表は、藤本聡選手は銀、木村嵩之選手は銅、加藤裕司選手は金、男子団体は銅をそれぞれ獲得した。今回は藤本選手(32、徳島県)に話を聞いてみた。
 藤本さんは現在、徳島県内の聾学校の理学療法士と、柔道の二束の草鞋を履いている。先天的な病気により生まれつき左眼は見えず、右目は矯正して〇・二見えるのが精一杯。
 五歳の頃にたまたま近所に道場があったからという理由で柔道を始めて以来、だんだんとのめり込んでいき、才能を開花させた。
 一九九六年、アトランタで行なわれたパラリンピックで優勝して以降、数々の大会で常に上位に顔を出す選手にまで成長した。
 しかし、アトランタ、シドニー、アテネのパラリンピックで三連覇を果たして迎えた、〇六年のフランス大会でまさかの予選敗退という屈辱を味わった。
 藤本さんは「天狗になっていた自分が、フランス大会で負けたため今回の銀に繋がった」と振り返った。
 専属コーチもなく、自分で練習方法を考えなければならない。また、健常者の強い相手を探していろいろな所へ出稽古し、自分の技術を高めている。
 藤本さんは「柔道は人生そのもので、たくさんの人に出会い、経験ができ、成長の場になっている」と感謝を表し、「自分の負けず嫌いと周りの人々の支えによって今でやってこられている」と声を弾ませながら話した。
 「最後は体がボロボロになるぐらいまでは続けたい。金メダルでオセロができるぐらい獲得したいね」と冗談交じりに笑顔を浮かべた。