2007年9月5日付け
移民たちの夢の跡で先人偲ぶ――。一九一五年の入植以来、延べ約千五百家族が開拓に入ったにも関わらず、〃消えた移住地〃となったサンパウロ州モジアナ線東京植民地。その先亡者が埋葬されているモツーカ、リンコン両市営墓地で初めての慰霊祭が一日、営まれた。グアタパラ農事文化体育協会(川上淳会長)主催、仏教連合会の協力。同移住地の創設者、馬場直氏の娘栄子さん、植民地の名づけ親で日本人移民の強力な庇護者だったキンカスさんことジョアキン・ヴィエラ・モウラ氏の孫ら、ゆかりの人約二百人が、先人に思いをはせた。
サンパウロ市から北西方向に約二百八十キロ離れた元東京植民地に、現在も土地を持っている山田三千年さん(74)は同植民地生まれ。
「うちは蚕をやってたね。祭りでは相撲やったり。賑やかでしたよ」。モツーカ市営墓地に、祖父母、ヤオキチ、タミさんをはじめ、兄弟二人が眠る。
「十年ぶりにモツーカに来た。懐かしいですね」と話すのは古庄トシコさん(68)。生まれ育った家が、唯一の日本移民が暮らした家として残っている。
下山俊積さん(82、熊本)は九歳で来伯、十七年同移住地に住んだ。「自分では覚えてないけど、『日本語学校があるところに行きたい』って親父に言ったらしい」と青春時代をすごした移住地の生活を懐かしんだ。
新移住地建設の夢を携え、ノロエステ線カフェランジャに八十二家族を率いてグアタパラ耕地を後にした平野運平に先立ち、馬場直は、近郊のモツーカに十五家族を連れ、東京植民地を建設した。
二〇年頃には、第一次世界大戦の特需景気もあり、三〇年前後、カフェ、綿などの生産で植民地は最盛期を迎える。七つの分村が周囲に広がり、日本語学校も四校を数えた。
しかし、地力の衰えから主生産が養蚕に変わりだしてから、退耕者が増え、四六年には勝ち負け騒動の煽りでリーダーだった馬場が退去した。
六二年に最後の入植祭が行なわれた頃には、十五家族しか残っていなかったという。
入植一年目で十五人の家長のうち八人がマラリアで亡くなるなど、平野植民地同様、凄絶を極めた。当時、近郊に墓地がないことから、リンコン市に運んでいたため、東京植民地の犠牲者は後にできたモツーカ墓地と両方に埋葬されている。
仏連の佐々木陽明導師により、両墓地入口でそれぞれ営まれた法要では、出席者らが献花と焼香を行い、犠牲者の冥福を祈った。
午後、グアタパラ文協会館で行なわれた昼食会では、東京植民地の名付け親であるリンコン登記所長だった〃キンカスさん〃の孫、ルイス・フェルナンド・ガルボン・デ・モウラ氏、リンコン市のテレジーニャ・イネス・セルビドニ市長がそれぞれあいさつ。
川上会長は、「今年入植四十五周年を迎えたグアタパラ移住地を将来どう残すか、というテーマと教訓を(東京植民地の歴史から)貰った」と話した。
馬場直氏の娘、藤野栄子さん(84)は、「この地に生まれ、育ち、学び、過ごしてきた者の一人として心からお礼を申し上げます」と出席者に感謝の言葉を述べた。
「三十年ぶりに訪れたが、五十年ぶりの知り合いにも会え、嬉しい」と取材記者に話し、兄謙介さんの妻実子さん(77)と共に会場で笑顔を見せた。
会場には、東京植民地に関する邦字紙の記事や、六二年に行なわれた第八回東京植民地相撲大会でグアタパラ移住地の参加者が三人抜きで勝ち取ったトロフィーなどが展示された。
ハミルトン・ファルヴォ・モツーカ市長は当時の写真を懐かしそうに眺めらながら、「子供の頃、相撲大会をよく見にいっていた」と親しみを込め、話した。
会場では、植民地時代の仲間や知り合いとの思わぬ再会を喜ぶ声がいたるところで聞こえていた。