花嫁移民とう言葉も知らず日本へ 娘は嫁ぎしと草原(パンパ)みる母
草原の虹を飛び越え日本へ 地球は狭いと娘は嫁ぎしとう
花嫁移民で来た母には、逆に花嫁移民で日本へ行ってしまった娘の勇気を、若き日の自分に重ね、夫よりも深い感慨があることが私にもよく分かる。
話がずいぶん飛んでしまったが、高田家から私が一人で街へ出かける事は、地理的にも言語上からも出来ない事であった。そんなある日、私を慰めたいと言う池田さんに連れられ、市内に出かけた事がある。市内見物といっても、こじんまりとした街であり、名所らしいものは無いらしく、
「外国の墓地はきれいですよ」とのことで、連れられて行った墓地の、印象に今も残っているのは、ベンチに開かれた読みかけの本と、ソフト帽とステッキを置いたまま、ふっと本人が居なくなったようなロマンチックな墓石があり、そのベンチに本物の枯葉が一枚舞い落ちていた様子だ。他に並んでいた、悲しみに打ちひしがれた女性像やマリア像より、そちらの光景が忘れられない。
どこをどう歩いたのだろうか。何度モンテヴィデオに行っても、その通りがまるっきり分からない。この時、タンゴを演奏しながら行く行列の一隊に出逢ったので、
「これは何ですか」と聞くと
「大統領選挙がもうすぐあるので、その演説が始まるから、その宣伝だよ」という返事が返ってきた。
「ヘエー」と言ったきりの私は、時代的錯誤を感じた。一国の大統領の選挙にこんな宣伝をと思ったのだ。
大変失礼だが、初めてこの一隊と出会ったときに、仮装して町を宣伝して回る日本の宣伝マンの一隊、チンドンヤを連想してしまったのである。眠ったときにみる「夢」も、希望の意味の「夢」も、すべて同じく「夢」と表現する祖国を思いながら、私は眠った時の「夢」の中にいるような錯覚、童話の世界に迷い込んだような気がしたのだ。あまりにのどかな、その光景のために。
話が前後してしまいますが、しばらくおつき合いして下さい。一九六六年十一月末日に、私はモンテヴィデオからバスで発ち、十二月一日にポルトアレグレで、ブラジル入国のスタンプをパスポートに押されているが、大統領選挙戦の宣伝行列を見ても分かるように、この頃のウルグアイの国民は疑うことを知らず、また疑うべきことがなに事も起こらない、安堵して生活していける国なのだと私には思えた。
「昔、この国の政府は国民に税金を払わせず、カジノのあがりで賄いをしたのに、このご時世じゃもの、この頃は税金ば、とりよるとよ」と、この頃はおばあちゃんと呼んでいる高田家の老夫人が言ったが、それこそ税金を払わなくても良い夢のような時期があった国なのだ。
この当時「五百人」と言われた日系人口のうち、私の知ることの出来たのは、ほんの一パーセントであったが、二十五歳まで住んだ大阪や、その後に住むことになるブラジルとは、まるで異なる、善良そのものの日本人達に私は擁護されたのだった。
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