白い漆喰の塗られた待合室に、飾られた色とりどりの紙の鎖と風船。カラフルだ。はじける大きな音。高い壇上にはファランドールを奏でるための二つのアコーデイオン。アコーデイオンとニチヨービ。長音が二つでぴったり重なる。女たちは揃って更紗を着、肩にはショール。頭にはネッカチーフ。そして、ジャラジャラと首飾り。昔のジプシースタイルの名残りだ。スカートはタップリ広く、靴下は分厚く色の濃い丈夫な木綿。男子は全員長袖シャツに、前ボタンをはずしたチョッキ。頭には帽子。マズルカには(ポーランド舞踊)ブラジル人は入れない、絶対的な韻律がある。
逃げるわけにはいかないのに・・・
前方に
日照りの道を女たちが通る。中のひとりは頭のてっぺんからつめの先まで青一色で(まるで尼僧だ)、しっかり立っている。まさしくハンガリーの女。そう、本国人だ。その足が私の気をひく。シャンパンのビンを逆さにしたような脚。気を引くのは女ではなく脚だ。農婦のような脚は、よく実った麦畑の記憶や、アカシアの木に囲まれた農村を想起させる。
どこにもかしこにもある大きな看板。
「長期の月賦に応じます」
ここの土地は安くて値段も手ごろだ。人生は長い。月賦も長い。ローズの風にのってくるのどかなアコーデオンの・・・マズルカの音のように長くて悠長だ。
小さな、小さな家並みを通り過ぎる。奥までひっそり建てられている巾6メートルに奥行き30メートルほどの家。必要最小限度の間取り。台所に部屋(重要なのは台所だ)。家の前部には猫の額ほどの庭。そこはちょうど建物の壁が終わるところで、角にはレンガの粗い素肌がいずれ建て増しされる日を待っている。そのうち家族も金も増えるだろう、と期待している。希望のあらわれだ。人生を克服する意欲。時間がはこんでくるものへの全幅の信頼がみえる。
前方に
広場がひとつ。つまらないものにもたかる人垣。つまらないものこそ最高のシンフォニーをかもす。のろのろと単調な繰り返し。あさ黒い大男が引くバイオリンの中から飛び出す曲は ――ツイガーン(註=ハンガリのジプシー)?
椅子の上の男もまた長袖のシャツ。ボタンをはずしたチョッキ。頭には帽子。あのバイオリン弾きは静かな水面に投げられた石だ。男を中心に丸い輪の渦が広がる。輪はだんだん大きくなり、岸に消えていく。こんなふうだ。男と女の小さな輪ができた。女たちと男たちは交互に手をつなぐ。まじめに黙りこくる、整然と。バイオリン引きが中心にいる。バイオリンの音が、広がるほどに、伸びるほどに、輪がひろがり伸びていく。その間に大人たちの輪を潜り抜け、どこからか現れた子どもたちが無心に、ひと塊になって色黒のバイオリン弾きのそばに立っている。輪はさびしいタップ・ダンスのリズムをもとに回り、これ以上は伸びられないほど広がっていく。そして最後にはじけた。陶酔にいざなった音色が叫び声をあげて、突然やんだ。水面の輪が消えていくように人の輪もしずかに崩れ去った。
この輪こそ、静かな人の塊である。あまりに静かなため、この人たちは母語をもたないのだろうかと疑いたくなる。道端にしゃがみ込んだ女たちが青い梨と観葉植物を広げて売っている。それからまた別の年寄りたちが板に飴玉と落花生を並べて売りながら、ロット遊びに興じている。サンパウロではまだパプリカを手に入れるのは難しいという。
それからこおろぎはハンガリー産だといわれるが、この辺では見たことも聞いたこともない。芝生が少なく地肌の見える広場を横切る写真屋。
その前方に
もう何もない。
あるのはローズの風だけである。
オラトリオ街を下る車のフロントガラスには、風をきってリスト(註=Franz Lizstフランツ・リスト。ハンガリーのピアニスト、作曲家)が奏でられる。このハンガリー日和の日曜、上のほうでは聞けなかったリストのしらべ。まるで聖ステバノの王冠のように重厚に厳粛に奏でられる。
前方には――。(1929年3月10日)
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