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花嫁移民=海を渡った花嫁たちは=滝 友梨香=24

 この道を多分、この辺りに住む人たちは常に往来して買い物などをしているのではあるまいか、パスポートなど必要なく。それを利用した密輸やテロなどが無ければ、全世界がこうありたいものと単純な私は思った。中東で絶えず紛争があり、北朝鮮に問題がある現在では、誰もが同じようにこんな平和を望むであろう。
 草原の中の道を真っ直ぐに走り続けるバスの両側には、牛や羊の放牧が続くばかりで風景の変化は全く無かった。他の乗客はそんな風景に関心を持たない様子だが、私は走っても走っても草原のその広大な草原を見続けた。二度とこの風景を見る事は無いだろうから、見ておこうと思ったのである。バスは二人のドライバーが交代で運転をし夜通し走りつづけ、ポルトアレグレに近づくにつれて山が多くなり、バスは山を縫うように走った。
 税関所に着いたのは山の中から出た頃だったように思う。ここでパスポートにスタンプを押されてブラジルへの入国手続きを済ませた。この時の税関所の印象が何も残っていないのは、次々に税関員の前に差し出す誰のパスポートにも、なんのトラブルもなく、また荷物にも手を触れられることもなかったのは、過去に何のトラブルも起きたことが無いということだろう。
 この一九六六年十二月一日から二十四年後の一九九〇年に、テルアビブで体験したあのしつこいほどの荷物のチエックに、日本赤軍のテロ行為を思い出す。この聖地ツアーに参加した全員が、
 「厳しかったわね」という一致した吐息を今も洩らす。ブラジルに住む私たちは、テロに脅えることのない生活は当たり前であるが、それが出来ない国々の厳しさを聖地ツアーで体験させられたことは、聖地であるゆえにことに寂しい。

 私の横には民子さんがいて、一言も話せない私の眼、耳、口、になり、税関所の手続き、食事などのすべてを指導してくれた。バスの中で、お腹を空かしているらしい三十六、七歳の男性が、オレンジを食べている私たちを見続けていたので、
 「たぶん欲しいのよ、かわいそうよ、あげようよ」という私に、
 「何も持たないで長距離バスに乗るのが悪い、ほっといたらいいのよ」と民子さんは許さなかった。お腹を空かしていたか、喉が乾いていたのか、あの男性の目付きを、今でも忘れることができない。バスはさらに走り続け二日目の夕方、サンパウロのバスターミナルに着いた。 
 ロドビアリアと呼ぶバスターミナルは、一九六六年には地方へ向かう鉄道のルース駅近くにあったが、私は自分がどこにいるのか知らないまま、民子さんの夫になる男性が迎えにきた車に乗せられ、市内ピニェイロス区のコペルチーバ・デ・コチア農業組合マーケットに近いミゲル・イザサ通りで花屋をしている松岡春子に引き渡された。

 松岡春子は当時五〇歳半ばであっただろうか。モンテヴィデオの高田老夫人の言うところでは「これこそ女傑よ」と言うタイプらしいのだが、鋭いとも、あるいは何を考えているとも解らないともいえる目元に特徴がある美人で、大柄な女性であった。否応なく親に連れられてきた子供移民であり、その後成功された人だった。高知県高岡郡出身であった。
 「今はヴィウーバ(未亡人)よ」と言い、花屋と自宅は別で私は閉店するまで待ったが、どんなことを話したか全く覚えていない。たぶん出身地が同じなので、土佐の話などをしたのかもしれない。亡くなった夫松岡氏について、その後居候をした三ケ月の間にポツポツと話してもらうことになった。