入植85周年を迎えるアマゾン移民発祥の地トメアスーで、史上初の大学の分校の建設が進んでいる。2009年、北、北東、中西伯では初の日系人の学長として、アマゾニア連邦農牧大学(UFRA)の学長に就任した沼沢末雄氏(62)が主導しており、「自分が育った場所に、これまでなかった高等教育機関を作りたい。それが恩返しだと思う」と話す。入植から85年―。叶いつつある地元育ちの二世の夢は、次世代への大きな希望だ。
坂口渡フランシスコ氏(トメアスー総合農業協同組合理事長)の土地を譲り受け、3240平米の敷地内に昨年3月から5学科(文学、情報システム、経営・会計学、生物、農業工学)のキャンパス、図書館を建設中で、来年初めに完成予定。来年中の開講に向け、今年11月には入学試験を行う。
トメアスー以外から学びに来る学生の寄宿舎の建物は既に建設済み。ゼナルド・コウチーニョ現べレン市長が連邦議員時代に申請した議員修正予算で建てられた。
この5コースのうち文学、情報システムの2学部は市内の小学校の校舎で既に講義が行われており、建物完成後に移管される。
任期が終了する2017年までに、同州カパネマ市にも同様に5コースの分校を設け、10コースの増設を図る。現在学部と大学院を含め6500人の学生数をさらに増やす計画で、連邦政府のプロジェクト「国家教育計画」(Plano Nacional de Educacao)の一環だ。
従来からある農学系のコースの充実とともに他領域の学部も設置し、総合大学への拡大を図る考えだ。「特に農業工学には、日系人の学生もたくさん入るのでは」と期待する。
「トメアスーでは、たくさんの人が学問を断念した。自分が学長になったことで、故郷の助けになれば」と考えた。プロジェクトを作って教育省に提出し、ジウマ政権以降では北部の大学としては唯一、分校設立が認められたという。
日本の研究機関との提携構築にも積極的だ。東京農大、鹿児島大、龍谷大(京都)とは既に人材交流が始まっている。
「父はいつも、〃どんなときも希望を忘れるな〃と言っていた。学長になれるなんて思っていなかったが、希望を失わなかったからここまで来られた」と礎となった父・谷蔵さんを偲び口元を引き締めた。
「本当に注目が集まっている。海外からも含め月に200人くらいが来ます」。トメアスー総合農業協同組合理事で、市の農務局長として森林農業の普及に力を注ぐ小長野道則さん(56、鹿児島)はそう喜ぶ。
農業をしながら森林を再生させるー日本移民の創意で生まれたこの農法への関心は世界中で高まる一方のようだ。
現在大学や企業関係者から絶えず問い合わせがあり、3年前からはJICAを通じ、ボリビアの森林農業プロジェクトを支援する。日本の鹿児島大、東京農工大、日本大学の学生を迎える。
2歳でトメアスーに移住。ピメンタの病害で悩まされた70年代、一家が苦しい時に長男だったため中学校に進学できず、周りが勉強している間に野菜を売った。「自分は農業で生きるとその時決めた」。17歳で家を出て以来、農業に携わってきた。
「胡椒はいざという時のために蓄えておく。生きるためには、常に作物がないと。カカオ、メロン、マラクジャが三本柱です」。20年の経験を地域に広め、単一栽培で苦しかった農家が豊かになり、良い生活をするようになった。
今後の課題は、指導者を養成すること。「学びたい人はたくさんいるのに、大学でも教えられる人がいない」。JICAとABC(ブラジル外務省傘下機関)が共催で指導者養成講座を開き、今年で9回目。約30人が参加し、トメアスーなど北部各地域で理論から実践までを学ぶ。
「生活が安定して豊かになれば、治安も良くなる。人間は一人では生きられないように、木も1本では生きられない」
1929年、南米拓殖株式会社(南拓)の第1回移住者42家族がトメアスーに入植。開拓初期にはカカオが植えられたがうまくいかず、米や野菜を作りベレンで販売した。初期は熱帯病に罹患して多くの入植者が亡くなり、転出するという苦い経験をした。南拓の経営に行き詰まりで、移住者は自立のため「アカラ野菜組合」を結成した。
戦時中、同州の日本移民はトメアスーに強制収用の上、軟禁され、組合は政府管理下となった。戦後はアカラ農民同志会の活躍で活動が回復。産業組合は総合農業協同組合として公認化され販売体制を整備し、農事試験場や病院等が運営され、地域発展に貢献した。
戦後は胡椒栽培が盛んになり、最盛期には5千トン以上生産される産業へと発展。1950年代前半は胡椒景気に沸いた。多くの「ピメンタ御殿」が建ち、25周年記念祭を盛大に祝った。
日本政府の海外移住振興政策により、第2移住地が建設され、1962年に第1陣が入植した。1970年代からは胡椒の病害が蔓延し、多くの人が新たな胡椒栽培地を求めて移転。胡椒の単作農業からカカオ、マラクジャ栽培など複数の作物を同じ畑で行なう森林農法に発展した。
熱帯果実のジュース工場と保冷倉庫が建設され、組合員の生活の安定と組合経営の多角化が図られた。今日では二世が中心となって運営や農法確立に取り組み、明日を築きつつある。(トメアスー移民史料館の展示パネルを参照)
梅田大使、トメアスーへ=気さくに歓談、笑顔あふれ
アマゾン移民の〃故郷〃トメアスーの文協会館で梅田邦夫駐伯大使の歓迎会が20日に行われ、約180人が出席した。
乙幡アルベルト敬一・トメアスー文化農業振興協会会長、坂口渡フランシスコ・トメアスー総合農業協同組合理事長、日系人のジョゼイルド・タケダ・べゼーラ市長、アマゾニア連邦農牧大学(UFRA)の沼沢末雄学長などが出席し、それぞれ挨拶した。
在外公館長表彰は、90年代に8年間同組合理事長を務め、経営再建、世代交代に尽力した峰下興三郎さん、トメアスーの電化事業に貢献した高橋茂雄さん(二世)、97~03年に同組合理事長を務め、経営の多角化を図った伊藤ジョージさんの3人に贈られた。
梅田大使夫妻は各テーブルを回って気さくに話しかけ、あちこちで笑顔がはじけていた。
「わざわざ遠くから来てもらって有難い。昔を考えれば考えられない」。梅田大使を迎えて、そう顔を綻ばすのは第1回トメアスー移民の山田元さん(87、広島)。歓迎会では乾杯の音頭も取った。
「昔は苦労しっぱなしでしたが、今は二、三、四世の時代。時代の移り変わりを感じます」としみじみ。
2歳で両親、姉とトメアスーに入植した。郡会議員も一期務めるなど、町の発展に身を捧げてきた。70歳まで愛知県豊橋市で就労した経験も。トメアスー本願寺の法務使として仏に仕える身でもある。
来年は米寿を迎える。「子供は3人、孫11人くらいおります。ひ孫は3、4人かな」。長生きの秘訣は「暴飲暴食しないこと。貧乏性で、魚と果物、野菜が中心です。酒も煙草もやりません。だから、宴会の席ではつまらないんですな」と笑う。今は全て息子に任せ、朝と夕方畑に出て、自家用の野菜を育てる毎日を送っている。