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花嫁移民=海を渡った花嫁たちは=滝 友梨香=26

 松岡家は大家族で移住したらしく、兄弟のそれぞれが、独立して成功しているということが慣れるにしたがい分かり、出会うその成功者の誰もが土佐弁であり、土佐を全く知らない二世の息子や娘にいたるまで土佐弁で、大阪弁しか使えなくなっている私は赤面するばかりだった。
 春子の孫達はまだ六、七歳だったが、一つのコロニーをなしている土佐弁の中で育てられ、耳から入る日本語は土佐弁であり、成人した現在の彼や彼女たちのことばを想像すると楽しくなる。

 松岡家にいる間、年老いた東海林太郎、神戸一郎のショーなどに連れて行ってもらい、クリスマス、正月、孫達の誕生パーテイ、還暦祝、結婚式、活花展、慈善バザー、絵画展、日系社会のイベントの様子を早く知ることが出来た。 
 春子はコチア青年(農業移民青年)が独立するまで世話をし、またその青年達が、日本から花嫁を呼び寄せれば花嫁達の世話をしたので、「ママイ」(お母さん)と呼ばれていた。日系社会に一目置かれていることが、彼女宛てにくる招待状の数から窺い知ることができたが、この頃の私はそういうことに気がつく年齢ではなかった。
 次女の時代が運転するコンビというワゴン車に、一家の一人として乗せられ春子のお供をした。私をつれて行くのは、ただ一人家に置いておくのも忍びないと、いう理由の他に、連れ歩いて「ここにジャポンノーボ(新来移民)の女の子が来ているよ」ということを、春子の世話をした青年や、嫁取りを考えている他の青年達にアピールを兼ねていたとも言える。
 ウルグアイの高田家から預かった娘であり、しばらく松岡家に置いて、彼女の見つけた青年の嫁にでも世話をしようという考えがあったようだ。そのことは匂わせるとしても、はっきり口にして私に言うことはなかった。
 春子が世話をした「コチア青年」と言われる農業青年移民は、その近郊で花作りやコーヒー作りをしてすでに独立していた。春子はいつも、
 「あたしが大将ぞね、誰に何の遠慮もいらん、落ち着いてここに居や」と言った。その間、私のことを話題にして婿探しをしていたのだ。時計の修理屋、花卉業の青年との見合いを勧められたこともあった。いずれも、私にとって申し分ない縁談であったが、ブラジルに来たばかりであり、結婚をしたいという気になれないのが本音であったため、たいていはお断りすることになった。
 松岡家の家事を手伝ってはいたものの、料理はカレーにハンバーグ、キンピラ、煮っ転がしぐらいしか出来ず、私が役立ったとは思っていない。ある日、
 「饅頭を作りや、餡子を貰うたきに」と春子が言った。
 「饅頭を作るの? おばさん、日本じゃ饅頭は買ってたよ、私は嫌いだから買ったことないけど」と私が言うと
 「何を言うでよ、ブラジルに来て。ここじゃ何でも自分で作るがよ。美味いもんほど家で作らないかんでよ。ここに粉と餡子を置いちょくきに、明日、日暮れまでに作っておきや」  
 「作り方を知らないのに?」
 「小麦粉に、ふくらし粉を入れて捏ねて、餡子を入れて蒸しや」
 「それで出来るの?」
 「考えて作りや」 
 こうして生まれて初めて作った饅頭を、その日暮れに帰った春子に出すと、
 「こりゃ、歯がたたん!」と春子も私も笑いころげた。歯もたたない饅頭の残りをどうしたか、覚えていないが、たぶん餡子だけ食べたと思う。