2007年1月1日付け
〇六年年十月、百歳を迎えて亡くなった最後の笠戸丸移民、中川トミさんと同郷熊本出身で同い年の元気なおばあちゃんがサンパウロ市アクリマソン区に住んでいる。大原綾子さん、百歳だ。一九一二年の厳島丸で来伯した大原さんは、ニッケイ新聞の現時点の調査で、トミさんに次ぐ最古の日本移民だ。つまりもっとも長くブラジルに住んでいる日本人。そんな大原さんに健康の秘訣とともに一世紀の人生を振り返ってもらった。
「健康の秘訣? よく働いたから元気なのかもね。何でもよく食べますよ」
大原さん(旧姓木村)は一九〇六年九月十日に熊本県で生まれた。結婚後、本籍を夫の出身地の滋賀県に移した。現在は子どもが五人、孫十人、曾孫七人がおり、百歳の誕生日は親戚一同が集まってお祝いした。
五歳のとき、父嘉一さん、母ミエさん、神戸で乗船するとき産後百日を迎えたばかりの妹、文子さんと第三回移民船の厳島丸で来伯。一家四人が開拓生活を始めたのは、笠戸丸移民も入植したグアタパラ耕地だった。
「子供だから何にも覚えてないけど、母が『こんなところへ来るんじゃなかった』と言っていましたね」。
五歳の綾子さんと乳飲み子を抱えてのコーヒーもぎ。素手で枝から実をしごいて剥けた母の手を、九十五年たった今も鮮明に憶えている。
マラリアで多くの犠牲者を出した平野植民地への入植の話もあったようだが、グアタパラでの契約終了後の翌年、サンパウロへ。
嘉一さんは手先の器用さを生かして様々な仕事で糊口を凌いだ。学校に行く年齢だった綾子さんは、コンデ街にあった日系最古の大正小学校で、創立者でもある宮崎信造先生に日本語を習った。しかし、三年で帰るつもりだった木村一家も他の移民同様、帰れる状況にはなかった。
「ルス駅の前にあるブラジルの学校に通いましたよ。二年に上がるころ、スペイン風邪が流行ったし、戦争の影響もあって、仕事や物資が少なくなってきたこともあってね。田舎だったら芋でも作れるだろうって考えでしょうね」
綾子さんが十二歳のとき、一家はリンスの町から十五キロほど離れたカフェザールに入った。
耕地主に種をもらって耕して、四分が取り分だった。朝五時に起きて、家族の朝食を作り、弁当を農園に届け、農作業も手伝った。すでに綾子さんは立派な開拓者の一人になっていた。
「百家族くらいいたかな。ウニオン植民地。山を切ってコーヒー植えて。イナゴの大群に稲を全部食べられたこともありましたよ」。
日本へ帰るという移住者から土地を買うころには、移住から十年が経っていた。日本にいた兄弟も呼び寄せ、生活の基盤はブラジルに移っていた。
「子供が犬や猫みたいに走り回ってるわけ。それで学校を作ろうという話になってね」。皆で金を出し合い作った学校には、二十人ほどの生徒がいた。
市にかけあって教師を派遣してもらったものの、リンスから馬車で通ってくるため、「雨が降れば来ない、風が吹けば来ない」の状態が続いた。
「そんなとき、学校を出たてのやる気のある若い先生が来たんですよ。みんなでそりゃあ、大事にしましたよ。家を作ってあげて、米から豆、野菜も持っていってね」。日本から来た兄利(さとし)さんらが青年会を作った。運動会、天長節のお祝いなど移住地は活気づいた。
二十五歳になった綾子さんは、裁縫の稽古のため出聖。リベルダーデにあった寄宿舎のサンパウロ州義塾には、移住地で懇意にしていた同い年の画家、半田知雄さんがいた。
「花の種をくれたり親切なんだけど、靴下が穴だらけなの。困ってるのかなと思って靴下買って置いてきたりしてね」。三〇年代のサンパウロを二人で飽くことなく歩いたことを思い出す。
利さんの同船者だった大原豊さんと二十六歳で結婚。現在同居する翠さんを筆頭に、弁護士として活躍する文協評議員会長の毅さんをはじめ、五人の子宝に恵まれた。
しかし、仕事の方は順調とはいえなかったという。「サンミゲールやイタケーラで農業をしたけど、何をしてもダメ。野菜作りも上手じゃなかったしね」。
コチア組合の寄宿舎に五年間管理人として働き、豊さんは、日伯毎日新聞の翻訳を九十歳で亡くなるまで続けていた。
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「学校に行ったのは二年だけ」という綾子さんの楽しみは、邦字紙を毎朝読むこと。
重労働のあとでも嘉一さんはカンテラの光をたよりに、読み書きを教えてくれたという。移住地でも「新青年」「キング」などの雑誌が届くと、貪るように読んだ。
「父も疲れていたと思うけど、本当毎日、行李に詰め込んでいた尋常小学校の教科書で教えてくれましたよ」。
そう綾子さんは移住地での生活を振り返り、〇八年の百周年を「お祝いをちゃんとしてくれたらいいですね」と微笑んだ。
難航した最古移民探し
【編集後記】中川トミさんに次ぐ最古の移住者探しは難航した。まずは新聞社が持っている今年度の百歳以上の長寿者リスト表をもとに、移民史料館が保管する手書きの乗船者リストと名前の照合をおこない、現在も健在である該当者を洗い出そうと試みた。
しかし、この乗船名簿は手書きで記入されていたため筆跡の判別が難しく、また、この名簿に載り今でも健在と思われる女性となると、ほとんどが結婚して性を変えており、リストとの名前の一致判別において名字はあてにならなかった。
また今回、調査の対象にした第二回移民船の旅順丸がサントスに到着した一九一〇年から一九一三年に到着した第十回の帝国丸に乗船してきた人は、現在も健在であれば最低、九十三歳以上。手元のリストは百歳以上しかないため、その九十三歳から百歳までの該当者を乗船名簿と照合できなかった。
そのため新聞社は何度も紙面で情報提供を呼びかけた。電話は毎日かかってきたが、その多くが「亡くなった私の親戚がそれにあてはまる」というもので、生存者の有力な情報は得られなかった。
それでもなんとか一九一三年到着の若狭丸と帝国丸に乗ってきて今も健在な九十四歳の男性と女性が見つかり、暫定一位として取材を試みようとした日、偶然にも大原綾子さんが厳島丸に乗船していたという情報が入った。
そこで大原さんの名前が百歳以上のリストから抜け落ちていたのではないかと調べたところ、しっかりとリストに載っていた。乗船名簿との照会作業中に名前と生年月日の一致を見落としていたことがわかった。
ニッケイ新聞社が調査した限りでは、大原さんはれっきとした最古の日本人移住者。もしも、大原さんより前の第二回移民船の旅順丸(一九一〇年)に乗ってきて、今も健在な方を知っている人は、ニッケイ新聞編集部(11・3208・3977=池田)まで一報をお願いしたい。