次女の時代は、サンパウロ大学法科出の才媛であったが、勤めを止めて春子の花舗を手伝っていた。彼女いわく、
「日本の女は、饅頭ひとつ作れん、鶏は食べるのに絞めるのは怖いと、可哀想だとよ」と言い、鼻の頭と唇の端で笑った。
一九六七年の秋、時代は春子の反対を押し切って一世の青年と結婚をした。農業移民で来たが、重労働に背骨を傷めて続けられず、松岡春子を紹介されて、その花舗を手伝っていた青年である。すらりとした細い体つきは、三十キロ近いジャガイモの袋を担ぎつづけるのは、無理かなと私にも思えた。美しい部類の顔つきであったためか、この青年と時代の仲が良いことは初めから一目でわかったが、あくまで花舗の仕事のコンビであるためと思っていた。実際には春子を悩ますような熱烈さで時代が青年を愛してしまっていたのだ。
「ユリさん、幸路さんをどう思うかね」と春子に聞かれた私は、
「頼りない人の感じ」と答えた。
「そりゃ、聞いたかね! ユリさんでも、頼りないと言うに、時代は!」と春子は娘に言った。事情を知らずに、問われるままに感じていることを言っただけだが時代には気の毒をした。
その後、家族会議が度々あり、おおいに揉めているようであったが、時代が三十半ばを過ぎており、回りからこの結婚を認めるように春子が説得され認めたようである。春子が何故これほどこの結婚に反対したのだろうか、時代は単に、
「親の嫉妬よ、姉の時も凄い反対をしたのよ」と言うのみで、実はそればかりでないことに気付いていなかった。時代の姉の場合も結婚したい相手は新来移民青年だったのだ。
この当時、私も春子のこころの内側に関心をもたなかったが、今はその気持ちが理解できる。春子のみならず、年頃の娘をもつ成功者の一世の親達は、移民の淒ましい苦労を舐めて生きてきたが故に、海の物とも山の物ともわからない素性の知れない新来青年移民と娘を結婚させることは、考えられなかったのではあるまいか。
私がサンパウロに着いたこの当時、初期移民の大成功者が数多くあり、親として成功者同士の縁を望むのは当然だっただろう。成功者でなくても、苦労をした故に一世の親たちは、すべての息子や娘を大学へ進学させようと懸命だったようで、成功した春子の娘の時代がサンパウロ大学の法科へ進んだように、大学卒の二世は珍しい存在ではなくなっていた。恋愛は自由であり二世同士の結婚は普通に行われていた。
しかし、開拓移民の時代ならできた日本の娘なら有難いと、マンゴの木の下でお見合いをして結婚をした春子のような婚姻関係は、移民の生活レベルに差が出来たことで狂ってしまった。成功者が、未だにうだつの上がらない移民との縁組に二の足を踏み、許せないのは当然であったと思える。
橋田寿賀子原作の「ハルとナツ」の両親のように、移民のすべてが食い詰めの「棄民」と呼ばれるような一家ばかりではなかった。春子が世話をした「このブラジルに己を賭けてみよう」と来ている農業移民青年や技術移民などが、この頃は多く移住しており、その中から成功者に認められて、娘婿になった青年もまれにいたようだ。しかし、ほとんどの青年は日本から花嫁を呼び寄せるか、ブラジル人娘との結婚をするかどちらかだった。
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