といってもブラジル人成功者の娘との縁も簡単なものではなかったはずで、簡単に親しくなれるのは日雇い人夫の娘であり、その虜になって結婚した青年も居たかも知れない。ブラジル人の娘のなかには実に魅力的な美しい娘がいるのだから。しかし、おおかたの青年が、「成功するまでの辛抱を分かち合い、共に耐えて生き抜いてくれるのは、祖国日本からくる花嫁である」と思い、こちらを選び、その青年移民の希望に応えて、「よし、この狭い日本の社会から出てやってみよう、自分を試してみよう」と考えた娘達が、小南ミヨ子女史のセンターや知人の紹介などで、海を渡って嫁ぐ「花嫁移民」と呼ばれる新しいタイプの移民を確立したと言える。
またまたずいぶん話が飛んでしまったが、花舗は土曜日一時までの営業で、日曜日はもちろん休みだった。ヴィデオなど無いこの時代には、土曜日の夜はサンパウロ市内の日系映画館へ行ったり、日曜日にはお互いに訪問しあったり、日本人会や日本語学校、お寺や教会がたび度開く資金稼ぎのバザーへ「おつきあいで」と言いながら行く事も実は楽しみの一つとなっていた。
この日も春子は曹洞禅宗仏心寺の裏方であり、池之坊流の生け花の新宮清子先生から招待状が来ているからと、ナモーラ(恋愛)中の時代の運転するワゴン車に、恋人幸路と使用人と私を乗せてサンパウロ市内、サンジョアキン街の日伯文化協会近くにある仏心寺に来たのだった。バザーには日本から来たばかりの私には、欲しいという品物はなかった。
春子の買い物が終わって昼食をする事になり、バザーの出ている裏側の一階高い食堂部へ入ると、地形の為に路は見えないが、赤レンガの長屋が見え、何にもかもものめずらしい私が上から眺め見るその風景は、異国の下町の美しさとノスタルジックな親しみが感じられた。
「さあ、ウドンが来るよ」と呼ばれてテーブルへ戻ろうとして四、五歩行くと、私がブラジル丸で熊五郎とアダ名を付けた相馬啓次が食堂の入り口に立っていた。
「熊五郎!」と私は言った。彼は信じられない目をして、驚いている様子ながらも、
「来たんか」と、彼のものの言い方で静かに言った。
「何処に居るの」と私が聞くと、
「此処から見えるやろ」と私がさっきまで見ていた赤レンガの長屋を指さして、
「タグア通り、五十一番や」と教えてくれた。
こうして偶然に出会った一人から、私がブラジルに来たことは市内に住む数人の同船者へ伝わり、現在まで四十年もの交際が始まった。それぞれに配偶者を持ち、子供が出来ても交際は続き、それぞれの夫や妻から、
「あんた達は仲が良過ぎる」と羨ましがられても。同時代に日本を出たため話をすればピントが合い、ブラジルに日本人が多いといえど親戚のような懐かしさが湧く。
「同船者というのは、うちの主人達には古里みたいな感じやと思うわ」と、その一人の妻は今では悟りの心境のような物言いをする。
第八章 タグア通り
ウルグアイに行くために、少しはスペイン語を覚えていたが、ブラジル語(ポルトガル語)はまるで知らない。数字の一、二、三をブラジルではウン、ドイス、トレィスというが、それさえ知らない私は、三ケ月間お世話になって松岡家を出た後もしばらくは、スペイン語でウン、ドス、トレスと使うしかなかった。