ブラジルの下町の家々は、いまでもこのような色彩に塗られているが、それは強い太陽に嫌味なく合って、ある種のロマンさえも思わせてくれる。通りに面する窓のある部屋はサーラと呼ぶ居間であり、その奥が台所二階には二部屋と手洗いがある。ブラジルに着いていきなり高級住宅街の邸宅に居候として住み始めたこの頃の私は、これが棟割長屋の間取りであることは知らなかった。
熊五郎こと相馬啓次は私の顔を見て、また、
「来たか…」と言った。思いがけず仏心寺で出会い、
「日曜でも行くところもないし、ごろごろしているよ、たいがいペンソンにいるよ」ということだったから、この日訪ねたのだ。
このころの電話事情は、電話を持ってない家の方が多く、先に電話をしてアポイントを取ることは出来ず、「行ってみて居ればよし、居なければ諦める」そんな調子の時代だったのである。
この日は彼に会ったのみで帰った。市内にいるのは、名前を覚えず背丈の大きさで、大きいお兄ちゃん、中くらいのお兄ちゃん、小さいお兄ちゃんと呼び親しくした独身青年の彼らと一緒の船室だった三十歳を過ぎていると思える青年であった。彼とは、ちょっとした縁があったが後に記そう。花嫁たちは地方の耕地へ嫁いでおり、熊五郎も「女の子たちとは誰にも会わんな」と言った。
ブラジル丸で同室だった一番会いたい宗教家の花嫁の住所を私は持っていたが、やはり見当のつかない場所であった。
「バウルーってどこにあるのよ」と彼女の住所を言っても、熊五郎にも、
「バウルー通りか? 地方のバウルーなら、うんと遠いらしいぞ」というぐらいの知識しかなかった。
この日の私たちの話題は私のウルグアイ事情につきたが、それについて彼が言ったことを覚えていない。
「サンパウロは日系人が多いから、何かしらやっていれば生きていけるよ」が、彼の意見だったと、かろうじて覚えているくらいだ。
その後、他の四人の同船者へも連絡が取れたが、
「仕事をせなあかんな、なんとかなるよ」という熊五郎と同じ言葉が返ってくるばかりだった。
日本から着いて三ケ月ばかりの彼らは、仕事についていても、それが最終目的であるはずはなかったし、これからどうするか、どう伸びてゆくか、日本流に希望を夢というなら、それを胸に第一歩目を踏み出したばかりであり、私のことについて考えられもせず、そのようにしかしか言えなかったのだ。
行きはよいよい帰りは怖い。熊のようにのんびりした熊五郎が、私をエスコートしてくれる機転が浮かぶはずもなく、リベルダーデ大通りへ出て右に向き、
「この道をまっすぐ行けや、ヴィヤズット・デ・シャー(お茶の水橋)の下がアニアンガバウや、簡単や、オバQが乗るバス停がある」と熊五郎は言うだけだった。
東京の御茶ノ水橋にかけて訳した橋への二キロ近い道を、日本人の顔を見ては聞きながら辿りついた。十五分で歩けるという道も、私にはそうはいかず、日曜日であっても道の渋滞するラッシュアワーの時間滞になってしまった。
アニアンガバウーから乗るべきバスは、長い長い列をなして人が待っていた。気後れした私はそれに乗れず、かと言って他のコースでアルト・ダ・ピニェイロスへ行く方法も知らなかった。