また、八〇年代半ば頃に赴任していた総領事夫人も例外ではなかった。このような人ばかりではないにしろ、昔から、こういう僭越さがどの州で働く日本の駐在員にもあり、それが日系人との仲を隔てた。これを書くために開いた本の中に、日本政府がらみのウジミナス州のある大きな事業も、「日本人駐在員の僭越な態度に優秀な二世達が耐えられず職場を出たがため」とあったが、そればかりではないにしろ考えさせられるものがある。この件に対して地方のコロニア有識者からルポしたものが、一九七五年三月出版、田宮虎彦著『ブラジルの日本人』に書かれている。
こういうブラジルとコロニアを見下す方々には正直ブラジルにいて欲しくなかった。腹がたつ私の思いは二、三年また四年後に帰国する駐在員とは違い、私たち移民がいくらブラジルの欠点を言っても、「じれったいねえ、どうして確りした国にならないのよ」と、二つの祖国を持った者の心に愛のある思いなのであり、駐在員とは決定的にこれが違う。
優劣の子を二人もつ母のごと胸を燃やして二カ国にゆるる
優秀な子にも劣るところを、劣る子にも優れたところの見える母親の気持ちで、二つの祖国を持ったような移民の気持ちを現してみた一首である。
ブラジルに来たばかりでまだ一、二、三もろくに話せない私だから、早稲田大の後輩からの紹介で、やむをえず使ったのであり、お手伝いをするにしても不備なことが多く、使う方は役立たずと考えたであろう。さらに給料をもらい働かしていただけ有難い有難いと、するべき仕事をするのみのお手伝いならいざ知らず、仕事が出来ない上に斜めに雇い主を見る私を、使う方もこれでは堪らなかったであろう。
この一九六七年の大統領はカステロ・ブランコ。インフレが進み、一千クルゼイロスを一クルゼイロ・ノーボに切り下げるという私にとって初めてのデノミネーションを体験した。これを見てもドルの価値は大きな威力を持っていたと言える。
この頃の駐在員は日本本社と、このブラジルとで給料を二重に貰い、一ドルが数十倍のクルゼイロ・ノーボになるドル立ての給料だったそうだ。生活水準は日本にいた頃とは比較にならないぐらい良かったと言う。帰国すると、すぐ家を購入したり建築したりしたそうだから何かの大きな勘違いが、そういう僭越な態度をさせたのかも知れない。
成功してあらゆる場でコロニアの長として活躍し、立派な家に住んでいても学歴のなさや、或いは棄民と言われた移民として蔑視していたのかもしれない。またブラジル人に対しては、その大陸的なおっとりした生き方を、日本人の物差しで計って侮蔑していたのかも知れず、この六〇年から七〇年頃の海外転勤を、中国には悪いが、「天国のブラジル、地獄の中国」と言ったものだと聞いたことがある。
一九九六年七月出版された石原慎太郎著『弟』。この本は著者の弟、大スター故石原裕次郎の子供のときから死に至るまでを書いたもので、その中に一九六一年制作の映画「アラブの嵐」のロケーシヨンためカイロへ行き当時の大使館へ、カイロ在住の主に日本の企業の社員や家族たちの要望で招待されたときのエピソードが、こう書かれている。