2006年12月20日付け
リベルダーデ区グロリア街にある、創業三十一年の老舗日本食レストラン「木下」が十六日をもって閉店した。来年前半には新店舗をサンパウロ市南部のジャルジンス方面に新規開店する見込みだという。かつて庶民的な〃カレー〃を武器にコロニアで一世風靡した同店は、二代目になって百五十レアルの〃おすすめコース〃がブラジル人高所得者層に受け、高級な「創作和食」の路線を突き詰めつつある。閉店のきっかけは立ち退きだったが、コロニア向けレストランから脱皮して、サンパウロ市南部の高級繁華街へ──背中を押された格好だ。
コロニアでは一世の高齢化と減少が危機感をもって語られるのを尻目に、ブラジル社会は空前の日本食ブームに沸いている。サンパウロ市だけで六百店という未曾有の時代だ。
〇三年七月二十三日付けヴェージャ誌の日本食特集によれば、九三年には八十店だった日本料理店は九八年には百七十店、〇三年には六百店に急増し、シュラスカリアの五百店を抜く勢いをみせる。
レストラン木下の歴史は、まさに日本料理史をなぞっている。開店当初は「味の街・すずらん通り」と呼ばれたトマス・ゴンザガ街の中ほどの二階にあった。七〇年代から〃カレーの木下〃で有名になり、味の秘密は何かと話題を振りまいた。創業者の木下利雄さん(70、北海道)は「毎週水曜日は〃カレーの日〃と決め、一日で百食もでた」とふりかえる。
それ以前は十四年間、ガルボン街で床屋を営んでいた。妻が友人と共同で日本料理店を始める計画を持ったことから、木下さんがそれ引き取って実行することに。最初は床屋時代の客の料理人に調理を任せたが、「ばくち打ちで時々来なくて、自分で憶えなきゃってことになった」。
八八年に、現在まで続いたグロリア街に移転し、高級日本料理店としてその名声を築く。九〇年代にはパラナ州都クリチーバにも支店を作ったが、五年ほどで撤退。その間、九七年には来伯した両陛下に食事を作ったこともあった。「ほんとに気をつかったよ」。
後に娘婿となる、村上強志さん(38、北海道出身)が九四年に店に修行に入った。村上さんは三歳で家族と共にリオに移住し、父の強い薦めで八八年に東京は新橋にある、明治時代から続く名店・大寿司で二年間の修行を送る。九〇年からニューヨークの日本料理店「しゃぶしゃぶ70」、九一年からスペイン・バルセロナの「きよかた」でも腕を鍛えた。
村上さんは「遊んでばっかでしたよ」と笑うが、その成果は九〇年代後半に結果を出しはじめた。ブラジルを代表する日本料理シェフの地位を確立し、フォーリャ紙の有名批評家ジョジマール・メーロ賞などを毎年のように受け、「KINOSHITA」はヴェージャ誌の日本食部門でも〇三年から連続で一位に輝く。
「パパイ(義父)がここまでのチャンスを与えてくれた」と感謝する。
その間、客筋は大きく入れ替わった。村上さんによれば、九五年頃は客の九割が日本人だったが、現在は半分以上がブラジル人となった。
その日のベスト素材をつかった「お薦めコース」は特に好評で、「あんきも」やフォアグラなどの高級素材をふんだんに使った創作和食は、舌の肥えたブラジル人富裕層に好評を博した。ブラジル人一般に普及した日本食の代表である餃子やヤキソバでなく、「本当の日本の味」を目指した、という。
現在の店は賃貸だったため、家主が隣の登記所に地権を売ってしまい、突然、立ち退きを命じられた。二十三日に立ち退くつもりで予約もたくさん入れていたし、素材も注文済みだった。残念ながら予定より一週間早い幕切れとなった。
村上さんは一月中に、次の場所選定をすませ、五月には開店するつもり。それまではパーティ会場の特注料理や仕出しを手がけるという。
伯字紙で日本食を代表する三羽ガラスといえば、ジュン・サカモト、アドリアーノ・カナシロ、ツヨシ・ムラカミが出る。コロニアから脱皮した新しい日本食の行方は、この三人が握っているようだ。
新店の全てを村上さんに任せた木下さん。「時代は変わったよ」としみじみ語った。