カロンの地に移り来て半世紀――。ブラジル沖縄県人会ビラ・カロン支部が今年創立五十周年の節目を迎え、記念式典が八月二十七日、サンパウロ市ビラ・カロン区の同支部会館で行なわれた。わずか十七家族の会員からはじまった同地沖縄県人の歴史。五十年を経て、在伯県人会で最大の支部へと成長した。当日は開拓先亡者および発足以来の会員物故者慰霊法要も執り行われ、出席者は先人を偲び、さらなる発展に向け誓いを新たにした。
支部創立から五十年間の会員物故者は百九十五人。当日午前中に営まれた慰霊法要には百五十人あまりが出席した。法要委員長の知花真勲さんがあいさつ。三線、琴の音色が響く中、若い県系子弟が舞台上の祭壇に花と茶を捧げる。出席者は壇上に置かれた位牌と過去帳に向かい焼香し、手を合わせた。
ビラ・カロン沖縄県人の歴史は、支部創立者の一人、上田幸明氏が五六年、十七家族の県人とともに「ビラ・カロン沖縄協会」を設立したことに始まる。
同氏の孫で、〇四年まで同地区の副区長をつとめた上田エドアルドさん(48)が法要の席上、壇上の過去帳に向かい、支部の草創期と「オジイチャン」の思い出を振り返った。
発足当初は会館もなく、上田氏の自宅を支部として使っていた。奥地からの転住者なども滞在していたという。エドアルドさんは、会議やガレージでのフェスタで披露された踊りや芝居の風景を振り返り、「『いちゃりばちょーでー(出会ったら皆兄弟)』の雰囲気は、私をふくむ当時の子供たちの人間形成にとても重要なものでした」と語りかけた。
支部の旧会館が完成するのは六三年。男性も女性も会員総出で建築にあたったという。上田氏はその三年後に亡くなった。エドアルドさんは、先駆者たちの教えは今も息づいていると語り、あらためて物故者の冥福を祈った。
午後二時から行なわれた記念式典には、与儀昭雄県人会長をはじめ近隣十八支部から代表者が出席。母県沖縄から来伯中の西原篤一在那覇ブラジル名誉領事も訪れた。
高安宏治支部長は、支部創立者をはじめとする先駆者の相互扶助と融和の精神を称え、家族一致でがんばったその精神が、無形の財産として子弟に伝えられ、現在の同地区の発展につながっていると語り、将来に向け誓いを新たにした。
十七家族から始まったカロン支部。現在の会員は四百五十家族(二千二百五十人)を数え、全伯県人会で最大の支部に成長した。
五十年代の当時は、むき出しの赤土にシャッカラが点在する閑散とした土地だった。そこに、沖縄からの移民やサンパウロ州奥地、ボリビアからの転住者が集まり始めた。
当初は縫製業の下請けや、フェイラのパステス業に従事していたという。
同地縫製業の草分けの一人、高良米三さん(70)は五六年に渡伯してカロンに移った。十九歳だった。内職的だった当時の仕立て仕事を採算が取れる産業にするため、最初の三年間は一日十八時間働きづめの生活が続いた。「休みは元旦だけでしたよ」。ミシンの修理なども手がけ、奥地やボリビアからの転住者にも仕事を教えたという。
七〇年代に入り金物を扱う人が増えはじめる。その後も多方面に進出、現在は建築資材や化粧品販売など多岐にわたっている。
支部長をつとめた山田義秀さん(92)。五八年にカロンへ移り、長くパステス業に携わってきた。
式典会場で「今は若い人ががんばって発展していますよ」と目を細める山田さん。「良かったと思いますよ、ここまで頑張ってきて」と感無量の表情を浮かべた。
節目を祝し、歴代の支部長、婦人部長をはじめ、文化、スポーツなどの各部門、区長などの功労者を表彰。高安支部長から代理を含む一人一人に賞状と記念品が手渡された。稲嶺恵市沖縄県知事からの祝辞も紹介された。
「もしビラ・カロンに来なければと感じます」。代表してマイクを持った宮城調智元支部長は、「ここで皆に育まれ、ブラジルでの生活を送ることができた。カロンは生活、事業全てにおいて立派な社会」と語り、「これからも地域のためがんばっていきたい」と謝辞を返した。
敬老会も合わせて開かれ、八十歳以上の高齢者九十九人の名前が読み上げられた。最高齢は九十九歳の与儀モウシさんと仲間節子さん。この日は仲間さんが元気な姿で会場を訪れていた。
会場を訪れる人は次第に増え、五百人あまりに。式典の後は祝賀芸能公演が催され、地元の愛好者を中心に舞踊、民謡、沖縄太鼓など様々な演目が披露された。
全伯一のマンモス支部に=沖縄県人会ビラ・カロン=半世紀の歩みかみしめ=創立50周年盛大に祝う
2006年9月5日付け