2006年7月26日付け
第二アリアンサ鳥取村の入植八十周年記念式典が二十二日、サンパウロ州ミランドポリスの同移住地会館で挙行された。地元アリアンサの出席者など五百人以上が会場を訪れ、節目の年を祝った。日本国外で唯一〝鳥取〟の名を冠した第二アリアンサ。式典にはゆかりの鳥取県から慶祝訪問団が来伯したほか、サンパウロ市からも、アリアンサ郷友会、鳥取県人会の一行が祝福に駆けつけた。同地文協の佐藤勲会長は「汗と涙で築いた村をこれからも育てていかなければいけない」と、力強く将来に向けた決意を語った。
第二アリアンサ移住地は一九二六年八月七日、鳥取、信濃両海外協会が同地に二千アルケールの土地を購入して創設。鳥取県から大岩村(現岩美町)村長をつとめた故・橋浦昌雄氏が初代現地理事として渡伯した。
翌二七年に第一陣が到着。この移住者を乗せた特別列車がソロカバで急行列車と正面衝突する悲運に見舞われる。その後も物資不足や伝染病、霜害によるコーヒー全滅など、開拓初期の辛苦を乗り越え、移住地は発展した。
戦前の三四年には約百七十家族、九百人の移住者が暮らしたという。ブラジル拓殖組合(ブラ拓)へ経営を移管してからは蚕糸場や製綿工場、精米所などの施設も建てられ、戦中戦後にかけてにぎわいを見せた。
現在同地に暮らす日系家族は三十四家族。うち鳥取出身者は三家族のみとなっているが、移住地の生みの親である鳥取県では、会館建設の支援に加え、九四年からは同地に日本語教師を派遣し続けるなど、現在まで移住地と深い関わりを保ちつづけている。同地が「鳥取村」と呼ばれる所以だ。
県からは節目の年に合わせ、藤井喜臣副知事、県議会議員などからなる慶祝訪問団十一人が来伯。式典の前日には、地元チームと野球の親善試合も行われた。
二十二日は式典に先立ち、自治会館に隣接してつくられた新屋根を除幕。資金の半分を鳥取県が、残りの半分を地元の寄付でまかなったという。
慰霊法要に続き午前十時半から行われた記念式典には、地元ミランドポリス郡長や、アリアンサはじめノロエステ沿線の日系団体からも関係者が出席した。
冒頭会場で、公務のため来伯できなかった片山善博鳥取県知事のメッセージビデオを上映。知事は先人の苦労に敬意を表し、八十周年の節目を祝福するとともに、「これからも日系の人、鳥取県ゆかりの人たちにがんばってほしい」とメッセージを送った。
慶祝団団長の石黒豊県議、藤井副知事もそれぞれ、第二アリアンサの繁栄を祝し、将来の交流継続に期待を表した。
農業経営が苦しい現状の中「どんな八十周年ができるか気が気でなかった」。あいさつに立った第二アリアンサ日系文化体育協会の佐藤勲会長は「多くの人がいつも訪れ、力になってくれる」と出身者、鳥取県の支援に謝意を表した。さらに、アリアンサ構想を掲げた故・永田稠(しげし)日本力行会会長の言葉「コーヒーより人をつくりなさい」を紹介し、「汗と涙で築いた村をこれからも育てていかなければいけない。これまでの歴史を土台に発展する八十周年になることを願う」と決意を語った。
七十五歳以上の高齢者十五人が表彰され、鳥取県訪問団と地元関係者が記念品を交わした。最後に鳥取県民歌「わきあがる力」を合唱。鳥取出身で自治会長を務めた前田樸(すなお)祭典委員長(86)は、「村を忘れずに来てくれた皆さんに感謝します」と参加者に謝意を表した。
昼食後の交歓会では、日本語学校生徒が劇や合奏、鳥取の傘踊りなど練習の成果を発表。地元小学校生徒によるダンスや、県人会訪問団の芸能も花を添えた。最後には会館の外へ出て、郷土芸能のしゃんしゃん傘踊りや盆踊りが行われ、地元の人、来訪者が踊りの輪でつながった。
同日夜には弓場農場で記念のバレエ公演。翌二十三日には運動会も催され、八十周年の記念行事は無事終了した。
式典には、アリアンサ出身者でつくるアリアンサ郷友会(木多清志会長)から、六十五人が同地を訪問、会場のそこここで旧知の人との再会を喜び合う声が聞かれた。鳥取県人会からも四十五人が訪れた。
郷友会のバスで訪れた小野寺(清水)郁子さんは四年間第二で暮らした。結婚で同地を離れ、今回、四十三年ぶりに訪れた。女子青年団時代の友人とも再会を果したという。「昔の家を訪れたが、今は誰も住んでいなかった」と、時の流れを感じながらも、「ここに来たら、皆が昔の呼び名で呼んでくれる」と嬉しそうに話していた。