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花嫁移民=海を渡った花嫁たちは=滝 友梨香=43

 このジャガイモ成金たちは、料亭内に一部屋借り切って、何週間も入り浸りだったそうだが、奥地から出てきて所用をかねての遊びと考えれば、ホテルもかねていたのではないかと思う。

 「バタテイロやったうちのマリード(夫)が死んだ時、青柳のホステス達が焼香に列を成したものよ、自慢にもならんけど」とウルグアイから来た私が拠り所とした松岡春子は言い、六十年初期、
 「そのホステスの三分の一は、たぶん花嫁移民で来た娘たちよ」とも私に言った。
 当時「料亭青柳」には七~八十人のホステスが働いていたそうである。私も失敗した花嫁移民であり、春子の言葉は、暗に「失敗したあんたも、そこに落ちるかもよ」と言っているように受け取れなくもなかった。ウルグアイを出る時、お世話していただいた高田さんから紹介され、サンパウロに来た第一日目から松岡春子宅に居候して、間もなく言われた言葉がこれだった。
 婚家先を出るような結果になるとは思いもしないことであったが、南米で唯一離婚を簡単に認めるウルグアイだったため、一カ月余で離婚手続を終ませることができたことを、年を経るにつれてブラジルへ来た花嫁たちの泣き寝入りの事情を知るほどに、私にとって幸運なことであったと思っている。
 ウルグアイの高田老夫人が「女傑」と呼ぶ松岡春子を紹介されたことも、失敗した花嫁移民が「落ちる所」と言われた料亭等で、働くことなく生きて来られた大きな理由だと今も感謝している。
 しかし、まるで違うとはいえ、逃亡奴隷の落ち着いた先もジャバクアラ、失敗した花嫁移民の一部が落ち着いた先もジャバクアラであった。何かしら哀しいものが私の裡から湧いてくる。

 前記の料亭赤坂はトレーゼ・デ・マイオ通り(五月十三日の意で奴隷解放記念日)にあり、市内であるためか、こちらは主に日本からの駐在員がよく使っていたようである。料亭は他にもあったはずだが、大きいのはこの二料亭であった。男性の夜の社交場としては、「ボワッチ」とこちらでいうバーもあり、夫の事業の成功まで、家計援助にホステスとして働いたと話した成功者の夫人もいる。この当時、私が紹介されて美顔術の仕事で出入りしたのは、この二つの料亭のみであり、青柳には上記の日のみで、二度とエステの仕事に行かなかった。行けば女将の熱心なスカウトぶりに、引き込まれそうで敬遠したのである。

 第十二章 コチア青年花嫁

 戦後、祖国が社会的に混乱していた一九五二年、ブラジルの日本人が作っている「コチア農産業組合」は創立二十五年を迎え、組合員は五千名を突破していた。時の組合専務であった高知県出身の下元健吉は、この産業組合を支えてくれ、さらなる発展を進めてくれる若い後継者が必要と考えはじめ、祖国の就職難や農地改革によって生じた農家の次男、三男の窮状に目をつけ、こうした独身青年の移民構想を立てた。
 確かこの頃の日本では、次男、三男を対象として自衛隊への勧誘が盛んなころだったようだ。中学生のころに、友達の兄達が何人か入隊したことが思い出される。
 右記の下元健吉の構想に、海外に雄飛して大農場主になることを志した青年達が、この移住制度に多数応募してきた。