しかし、青年が日本を出る前に、すでに婚約していた女性が渡航して来たというのと、写真見合いをして花嫁移民として渡航するのとは、まるで内容が異なるとはいえ、本人たちも「私は花嫁移民ではない」と言う。
コチア農業組合は拓殖部に「結婚相談部」を設置し、一九六三年に相談員を日本に派遣して花嫁の募集をはじめたそうで、「戦後移住の五十年」によると、それにより渡伯した花嫁移民は五百人にも達したそうである。青年の数に対してこの数字は少なすぎると思うが、花嫁移民の公募に対して応募して来ていなければ、記入されない花嫁もあったと考えられる。
それはさておき、顔も手も肘も真っ黒くなって耕地で働き、洗っても洗っても落ちない汚れを身に染みこませた青年の姿に、サントス港で対面した花嫁たちは驚いている。この驚きはブエノス・アイレス港でのダッコちゃんと変わりはないだろう。ダッコちゃんには夫の係累があり、それによって大変な苦労が強いられたが、その係累によりすでに生活の基礎は築き上げられていたはずである。
このコチア青年達の花嫁としてきた娘たちには、兄弟で来ていない限り、夫の係累はあるはずがなく、嫁姑の苦しく辛い争いはもちろんなくても、しかし家族的な優遇を受けた農家、パトロンの一家への礼儀は忘れてならないものであった。
この関係は嫁姑とはまるで違い、この国の生活のさまざまな習慣や食生活など教えていただきながら、どちらかと言えば実家と言えるような感覚で現在もお付き合いが続いていると言えなくもない。パトロンの家は実家が遠すぎる花嫁たちにとっては、泣き言を言える場所でもあったとも言えるが、しかし、それもパトロン一家の人間性によりけりで、辛い辛い思いをした青年と花嫁もいたそうである。
コチア青年五十周年の記念の妻たちの座談会を読めば、夫になった青年達は、優しかったとみな同様の思い出話をしている。まだ生活の基礎はできていなく、サントス港から農地に着き、そのまま新居に入ったときに見た夫の持ち物はトランク一つだったという。電気がないのは当たり前であったと言い、あくる日から井戸を掘ったともある花嫁は言う。しかし、花嫁を迎えるために貧しい小屋を小奇麗に掃除して白いテーブルかけを掛けて待っていてくれたことに、花嫁達は五十年後の今も感激して夫を、
「なかなかの人だったのよ、宝くじにあたったようなものよ」と表現してはばからない。とはいえ、こんな話をしてくれる人もいた。
「こんな例もあるのよ。サントス港へ花嫁を迎えに行くバス代だけで、帰りのバス代はなくてね、初めて会った花嫁に、お金を持って来たかって聞いたそうよ。もちろん持っているわよね。そう言ったら、出せって言われてね、出したそのドルを早速クルゼイロに替えて、サンパウロの奥地へ帰るバス代にしたという青年の話を聞いたわよ」
「パトロンの家に住み込みしている時には、小遣い銭ぐらいで給料は貰えないからね。そういう人も居たでしょうけど、それは悲劇よね。青年が独立していたにしても、その青年の面倒をみたパトロンの人間性を疑いたくなるわ。そんな思いを青年にさせるなんてね。それで花嫁の方はその後どうしたの?」