2006年7月7日(金)
【既報関連】五十年間会っていなくても強い愛着――一九五六年七月十四日サントス着港のチチャレンガ号の同船者たちが、さきごろの「パラグァイで会いましょう」に続き、今度はサンパウロで会おうとしている。集いは、八月十七日(木)正午、レストラン「つばき」(ガルボン・ブエノ街、ニッケイ・パラセホテル地下)で催される。同船者会世話人の中心になっているのは、八十歳代の女性三人。熱心なものだ。同船者の構成家族写真を本紙編集部に持参し、「それぞれが、もう独立しているでしょうが、もし、新聞を見て、事情が許したら、ぜひ同船者会に参加してほしい。会いたい」と呼びかけた。
既報のように、当該船の移住者たち約二百八十人は、ブラジル、パラグァイ、アルゼンチンに別れ別れになった。移住者の宿命だ。サントス着港から五十年を経て、互いにその後、会っていない同士のほうがはるかに多い。
去る五月二十一日、ペドロ・ファン・カバリェロ市(パラグァイ)のアマンバイ日本人会館で、移住地入植五十周年記念式典が行われた。式典に表敬しようとブラジルから、永田美和子さん(74)ら「五六年七月十四日サントス着港チチャレンガ号渡伯者」が十数人参加した。移住地に入植した同船者たちと交歓、懇談する目的もあった。
アマンバイ訪問は、本紙を通じてブラジル在住者に働きかけられたが、都合で行けない人もいた。そこで今度の世話人の一人、岩手県出身八十五歳の小原あやさんらが「ブラジルでも会おう」と同船者会を企画した。
小原さんは五日、セピア色に変色したモノクロ写真を一枚持参して、この構成家族写真を新聞に掲載して、同船者会に来れるようにしてほしい、と述べた。
平田喜平次さんの構成家族九人の写真だ。家族は、下船後、サンパウロ州の平野植民地(カフェランジア)に向かったという。小原さんは構成家族の一員ではないが、この家族写真を五十年間、大事に保管してきた。喜平次さんは一九八一年、八十六歳で亡くなった。小原さんはそのことを、邦字新聞の「死亡通知」欄で知った。すぐ、香典と悔やみの言葉を遺族に届けようとしたが、「知っていた住所」にはすでに居なかったという。
写真には喜平次さん夫婦以外に七人の青少年と幼児が写っている。撮影時から五十年。七人は、それぞれ独立して家族を持っていると思われる。もっとも小さい女の子でも健在なら五十数歳である。
家族にどんな歴史があったのだろう。同船者会では互いにそうしたことを語り合いたいといっている。
世話人は、古株内男さん(69、ピラール・ド・スル、015・3298・1121)、小原あやさん(85、ボツカツ、014・3882・6341、夜間のみ)、富田義子さん(87、サンパウロ、011・3251・1213、夜間のみ)、赤木まさ子さん(83、サンパウロ、011・3272・8755)。八月七日まで、四人のうちの一人に出席の連絡がほしい、と呼びかけている。