2006年6月29日(木)
作曲家と共に神戸の移住センターを訪ね、移民坂を上りながら曲想を練って作ったオリジナル曲『ソウ・ジャポーザ』などを携え、〃コロニアが育てた〃日本の演歌系歌手、井上祐見が二十三日に来伯し、今年も南米公演をスタートさせた。ウルグアイ公演のあと今週末からアチバイア、サンパウロ市、クリチーバをはじめ県連の日本祭りでも歌う。今年八年目、移住者の心のヒダに訴える曲をと願って今年も歌いこんできた。
♪移住坂を登れば神戸の町並み――。井上祐見(30、愛知県在住)の澄んだ声が二十四日、ツッパン文協の会館に響いた。
歌い込んだ『ソウ・ジャポネーザ』の出だしが聞こえてくると、四百人で満員となった会館は水を打ったように静かになった。誰かがしゃべりだそうとすると「シッー」という静止する声が響く。
全員が耳を澄ます、張り詰めた雰囲気。「いつも心に抱いている、白地に紅く燃える想い」。井上の伸びた指先に観客の視線が集まる。最近の歌には珍しく日の丸を歌詞に織り込み、最後には「清く正しく美しく、日本の心永久(とわ)に生きる」。歌い上げると喝采が起こった。
「今回は違う」。マネージャーの中嶋年張は手ごたえを感じた。この曲は二〇〇三年の戦後移住五十周年式典のテーマ曲にもなった。「日本では歌っても、歌詞の中身がピンとこないみたいで・・・」と中嶋は首をひねる。
にもかかわらず、曲想を練るために、井上はもちろん、作曲家の藤山節雄も『蒼氓』(石川達三著)などの書籍を読んで勉強、神戸の移住センターを実際に訪ねた。
日本で歌えないのに作った理由を、井上は「毎年聞きに来てくれる人もいる。苦労されたみなさんに私なりのプレゼントを渡したかった。歌うことしか知らない私なので、曲しかないと思って先生にお願いしました」と説明した。
井上は日本でNHKスタジオパーク、二十四時間テレビ、西日本放送など多数の番組に出演したほか、長崎放送では「井上祐見のスウィートモーニング」などのレギュラーFM番組(四年目)もあるプロの演歌系歌手だ。
井上が『青春譜』でデビューしたのは九七年。初めて南米を訪れた九九年一月には、三週間で四公演をこなした。まだ若干二十三歳。以来、毎年南米で約一カ月を送る生活になった。
中嶋は振り返る。「あの当時、井上は新人だったので、日本で営業しても二十~三十分歌わせてもらうのが精々だった。初めての外国がブラジルで、第一回目のスザノ公演で二時間半歌いっぱなしですから」。
次の公演地に見たことのある顔がいた。声をかけると「すっごい良かったよ。スザノから六時間、車を運転して聞きにきた」と言ってくれた。井上はそんな出会いに心を打たれた。
「日本では客席とステージがキッチリ別れ、売れていない歌手には一線を引くような雰囲気がある。でもここでは面白ければ聞いてくれる。真剣勝負、やりがいがある」
やりがいはあっても、南米公演の実績が、日本の芸能界で即評価される訳ではない。まして経済的に利益が出るわけでもない。それでも南米公演を辞めない。
「サンパウロに行く、というより〃帰ってきた〃という感じです」。本人はいたって淡々としている。
「歌が好きで歌手になったんですが、いつしか仕事で歌うことが苦痛になっていた自分がいた。そんな私に、ブラジルはステージでの楽しみを教えてくれた。すっごく楽になりました」。中嶋も「ステージやってて、素(す)で笑えるようになったのはブラジルが初めて」と同意する。
「コロニアが育てた歌手」と言われるゆえんだ。
来年や再来年の百周年に向け、公演を希望する移住地や日系団体を求めている。中嶋は「井上を使ってやってください。ぜひ言ってきてください」と呼びかける。
◎ ◎
南米公演全体をニッケイ新聞社とダイドー商事(園田昭憲社長)が後援。ウルグアイのモンテビデオ公演ののち、七月二日にアチバイア。さらに、新曲『炎太鼓』も同六日の宮城県人会での公演で披露する。芸人の大先輩、丹下セツ子と共演したい一心で作曲家にお願いして作った。当日は丹下太鼓道場の和太鼓が華を添える。同八日にはクリチーバ文協会館で、十日には豪華な設備で有名なパラナ州立グアイラー劇場で行われる州民俗芸能祭の日本文化の部に友情出演するなど、各地での公演が目白押しだ。(敬称略)