2006年5月31日(水)
「チームに入ってきた研修医たちに、ボイコットされた」──。
九六年四月末に発足した「NADI」。その滑り出しは、苦難の連続だった。終末期医療が院内で、きちんと〃認知〃されていなかったからだ。
あらゆる手段を尽くして患者の命を救うのが、医者の使命だと教え込まれる大学教育が背景にある。
「死期が迫った患者の緩和ケアをするのは、医師にとって受け入れられないもの。異端児のように見えたと思う」。千馬さんはそう明かして、顔をしかめた。
「NADI」は九五年に、クリニカス病院内で開かれた円卓会議を機に結成された。
八〇年代後半。非日系人女性が病院に駆け込んできた。筋ジストロフィーの一種で運動神経が徐々に衰え、呼吸困難になっていた。補助器具を使い、在宅で治療を継続。その後六年間、生き延びた。
非公式の形で、医師が対応していたが、正式なものにしたいという思いもあった。
円卓会議以前から、千馬さんは外来で、がんなどで回復の見込みのない患者を診断。それだけでは満足のいくケアができないと、独自の判断で患者の自宅まで通っていた。
高齢者向けの健康増進運動に取り組んでいる、医師などが院内に勤務。互いの経験を報告しようと、円卓会議が企画された。
六~七人が酸素吸入や流動食について、意見を交わした。うち三人が意気投合。在宅ケアを管理し、患者のニーズを探っていくためのチームを旗揚げする方向で話が進んだ。
政府の統一保健システム(SUS)を受け付けるクリニカス病院。在宅ケアに手を広げるとなると、ファベーラなど治安が良いとはいえない場所に足を踏み入れなければならない。医師の安全確保が、きちんとできるのか……。
そもそも緩和ケア自体について、抵抗があった。院内を見回しても、モルフィネを打てない医師がおり、千馬さんがちょくちょく代役を務める状態でもあった。
何かを始めるに当たって、反対意見があるものだ。「夢があれば〃雑音〃が聞こえない」と千馬さん。執行を担った、役員の後押しがあったのも幸いした。
こうして生まれたのが、「NADI」だ。名称はポルトガル語の「O Nucleo de Assistencia Domiciliar Interdisciplinar」(在宅医療センター)の頭文字をとった。
パイロット・ケースとして、十人の患者でまずスタート。徐々に、その数を増やしていった。医師、看護婦、ソシアル・ワーカーの三部門しかなく、三・四平米の空間で会議ができるくらい、小さな〃世帯〃だった。
研修医を入れて、現場をみせた。もちろん、人手不足を補うという面もあった。ノウハウを身に付けた医師が全国に散らばれば、緩和ケアが広がっていくと考えたのだ。
ここで次なる試練が待ち構えていた。日本の病院分類で緩和ケアは高度の医療を行う、特定機能病院(ブラジルで第三次病院)に入っている。大掛かりで派手な手術をするといった感覚で、研修医は「NADI」の門をたたいた。
患者に無駄のない治療を施し、生活の質を高めるというのは地味できつい仕事。研修医が当初、抱いていたイメージとはかなり異なったものだった。
緩和ケアをスタートさせたとはいえ、〃期待はずれ〃はチーム内や患者、家族とのトラブルになって表面化。きめ細やかな対応が困難になってきた。千馬さんは十月のある日、研修医を集めて言った。「もうここに、来なくてもよい」。(つづく、古杉征己記者)
■緩和ケア=最先端担う千馬寿夫医師=連載(1)=回復の見込みない患者対象=生活の質を高める
■緩和ケア=最先端担う千馬寿夫医師=連載(2)=患者は「死」に対し神経質に=チームに求められる冷静、忍耐
■緩和ケア=最先端担う千馬寿夫医師=連載(3)=患者との絆どこまで深める?=思い入れ強過ぎても不可