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「私たちの校舎が新しくなった」=パ国最古の=ラ・コルメナ=日本語学校――日本語あったから移住地が70年ある

2006年5月13日(土)

 「校舎が新しくなった!」と喜んでいるのはパラグアイのラ・コルメナ(La Colmena)移住地にある日本語学校の児童生徒たちだ。学校の看板も新しくなった。
 ラ・コルメナはパ国における日本人移民発祥の地で、一九三六年五月十五日に産声をあげた。その年の十一月十六日に日本語学校が開校した。紛れもなく、勤勉な日本人の象徴だ。
 パ国移住五十年史には「入植者の出役で掘っ立て小屋の移民収容所を改造し、学校とは名ばかりで仮校舎とも言えない粗末な処で、児童六十二名と関係者によって開校式が行われた」と記述されている。が、近隣諸国と同様に歴史の変遷に翻弄された時期もある。
 四一年(昭和十六年)に第二次世界大戦が勃発するとパラグアイも敵国となり、日本語学校が閉鎖された。
 六九年(昭和四十四年)現在の日本文化協会の敷地内に新校舎が建設されるまでの二十数年間は、移住地の三カ所で私塾が設けられ、父兄たちが子弟に日本語と日本文化、しつけ教育を行ってきた。幸いにも、戦争中も日本語教育が黙認されたのがブラジルなどとの違いのようだ。
 新校舎建設と今回の改築も日本大使館の支援で実現した。三六年の日本語学校開校と共にアグスチーナ・ミランダ女史(〇五年逝去)がスペイン語教師として着任した。これが縁で同女史は、子弟の教育を含め、パ国における日系社会のために多大な貢献をした。日本政府は、六六年に勲三等瑞宝章を、八二年に勲三等宝冠章を贈って女史の功績に謝意を表明している。
 移住地初期生まれの二世で、私塾で教育を受けて育ったラ・コルメナ・パラグアイ日本文化協会の千葉玄治郎会長(六五)は、祖父母の国で進んでいる少子化と高齢化を意識しながら「三世や四世たちに日本文化が薄れてきている。移住社会の子弟に日本語と日本文化を積極的に伝えることがいずれ日本のためにもなるはず。たとえば、定年を迎える(日本の)団塊の世代の皆さんが南米に来て、日系子弟に言葉と文化を教えることを期待したい。移住でなくても、来て下されば良いのです。(彼らが来れば)移住地の活性化にもつながりますよ。人数が増えれば『シルバー団地』も考えられるでしょう」と口調に熱がこもる。
 百二十年余の歴史があるカナダの日系社会でも日本語教育に携わった経験があるという日系社会青年ボランティアの高橋依子さんも〝敬称語〟の指導の必要性を指摘する。移民発祥地からの熱い発信だ。
 日本語学校の今の在校生は六十六名。教師は一世の高橋美佐子校長と田中静子さん、二世の三島幸子さん、三世の林さゆりさん、そして、青ボの高橋依子さんの五名だ。
 三島さん、林さんは母校卒業生。「日系子弟には日本語を忘れないように、非日系子弟には日本文化と日本語の持つ意味を、伝えています。礼儀作法や道徳も『しつけ』の一環として毎日指導しています。日本語があったからこの移住地の七十年があるのです」と高橋校長は語る。
 日本人移住者と共に歩んできたラ・コルメナ市も今年、創立七十周年を迎えた。来週十五日に移住地で挙行される七十周年記念式典に集う多くの市民や来賓を前に、在校生たちは移住地七十年の歴史を劇で演じる。演じる子供たちは、この劇を通して、父母や祖父母らの開拓時の情熱と苦労を初めて知るのであろう。
 この日は、改装された自分たちの学び舎の落成式も同時に行われる。そして、翌十六日からは校門に掲げられる新しい看板をくぐり、新装なった教室で新たな気持ちで日本語習得に励む日々が始まる。(渡辺忠通信員)