2006年5月13日(土)
「忠、孝、仁、愛、信、義、和、平―の心を大事にしなさいと息子には言い聞かせてきました」。日系サンパウロ市議の一人、ウィリアン・ウー氏の母、巫(ウー)杉子さん(68、旧姓田中)は、孔子の論語を教育上の信条としてきた。日本生まれの台湾育ち。結婚後、ブラジルに移住してからも東洋思想、日本精神を心の糧に日々を生きてきたという。十四日に母の日を迎えるにあたり、三つの国を生きて抜いてきた杉子さんに話を聞いた。
「終戦までは家でも学校でも日本語だけだったでしょう。苦労しましたよ」
東京生まれの杉子さんが台湾に移り住んだのは日本統治時代の一九四二年、五歳の時。石川県出身の父、田中忠雄さんは早稲田大学を卒業、台中県豊原市長を務めていた。母、節子さんは岡山県の出身。
終戦後、多くの日本人が引き上げたが、一家は台湾出身だった父方の祖父の「廖(リョウ)」に改姓、台湾に留まった。
学校ではマンダリン語、日常会話は?南語(台湾で使われる言語)、家庭では日本語というトリリンガルな環境で多感な少女時代を過ごす。
小学校の教師をしていたとき、現在の夫となる巫(日本名、松賀)欽亮さんに見初められ、二十一歳で結婚した。
欽亮さんは台湾出身で旧日本陸軍工科学校出身の元職業軍人。米軍が設立した農業調査機関で李登輝元総統と職場を共にしたこともあるという。
すでに生まれていた長女ベレーザを伴い、六〇年にブラジルに。飛行機での移住だった。
「主人についてきただけ。アマゾン行きだけは反対しましたけどね」
空港に着き、「日本語の通じるところへ」とタクシーの運転手に伝えた。サンパウロ最初の夜を過ごしたのは、リベルダーデの「ホテル池田」だった。
英語が堪能だった欽亮さんはアメリカ企業に就職。現在も住むジャルジン・サンタクルスに土地を購入、生活の基盤を固めた。次女サンドラ、三女ジョアナ、長男リカルドと次々と子宝に恵まれた。
六八年にウィリアンが生まれたとき、こんなエピソードがある。
出産後、欽亮さんは「名前はウィリアンにしたよ」と雑誌に走り書き、ベッドに横になっていた杉子さんに見せた。「WILLIAM」と書かれたすぐ上に大統領選挙に関する記事があった。
杉子さんの家系は政治家が多かった。母方の祖父は台湾総督府台中州知事、伯父も市長を務めた。「家族から政治家を」という気持ちから、ウィリアンだけは日系ミッション系幼稚園カリタス学園に通わせた。
日本的な道徳心をつけさせたいという思いがあった。「政治家に一番大事なことでしょ。夫も軍隊式に厳しく育ててね。『正直に人のために働け』って」
ウィリアン氏は、先日来聖したダライ・ラマ氏に接見。「『あなたの心には人を手伝う気持ちが強い』って言われたそうです」。杉子さんは頬を緩ませる。
ウィリアン氏の選挙活動では自宅に事務所を構え、自ら戸別訪問することでも有名だ。十月の統一選挙に向け、「七月からはまた忙しくなります」。
杉子さんにとって、母の日は五人の子供と七人の孫が駆けつけてくれる「一番幸福な日」。今年も手巻き寿司やビーフンで家族とひと時を過ごす予定だ。
毎年欠かせないことがもう一つ。台湾で健在の母、節子さん(92)に電話することだ。
「いつも孫のために祈ってくれてます。何の話をするかって? いつもNHKの大相撲の話よ」。
見せた笑顔に政治家の母、老母を思い遣る娘の表情が交錯した。