2006年4月25日(火)
【エスタード・デ・サンパウロ紙二十二日、二十三日】プロサッカー界の巨将の名を欲しいままにしてきたテレー・サンタナ氏が二十一日、ミナス・ジェライス州ベロ・オリゾンテ市内の入院先の病院で死去した。享年七十四歳。
葬儀は同市内で行われ、教えを受けた多数の選手やプロサッカー関係者、地元のイタマル元大統領をはじめとする政界著名人などが最後の別れに詰めかけた。
同州イタビリット市出身で、リオ市のフルミネンセを皮切りに一九五〇年から十年間現役でプレー、様々な大会で六個のトロフィーを手中にしている。
名将とうたわれた監督業は一九六七年フルミネンセの準青年の下積み指揮官から始まった。病気で引退を余儀なくされた九五年まで三〇以上の優勝カップを手にした。中でもサンパウロチームを率いて九二年と九五年の二回、東京で行われたトヨタカップに優勝、クラブ世界一を全世界に知らしめた。
ワールドカップで二回ブラジル代表の指揮をとったが、優勝には見放された。八二年は準々決勝で、八六年は準決勝で敗退した。その後も監督就任の要請が相次いだが健康状態が芳しくなく、断ってきた。
指導は定評があり「プレーは芸術であり楽しむものだ」をモットーに信念を頑固一徹に通してきた。当時は反発した選手や監督の後輩は後になって教えの偉大さを痛感したという。
ルーラ大統領はこれまでの偉業の基となったフェアプレーを賞賛するメッセージを寄せて伝説となった名将の死を惜しんだ。